14. これが、恋なんだ

 「――はい、みんないい?佳衣からひとこと挨拶あるからね」

 8月28日金曜日。最後のバイトが終わったところで、昭伯父さんは私に手招きした。その隣に立つと、帰り支度を始めた皆さんに向かって、私は深々と頭を下げた。

 「今日で出勤は最後になります。皆さん、今までありがとうございました」

 「ああ~そうなんだ!夏休みももう終わりだもんね」

 「仁礼ちゃんには本当に助けてもらったよ、ありがとうね」

 田賀さんと滝元さんが声を掛けてくれる。2人とももうお子さんが社会人だからか、ずっと私のことを子供のように可愛がってくれて感謝しかない。

 「いえ、テストや母の入院でろくにシフトに入れなかったりしたので、申し訳なかったです」

 「それは仕方ないでしょ、大変だったのによくやってくれたじゃない」

 「そうそう、みんな仁礼ちゃんが丁寧に仕事してくれるって喜んでたんだよ」

 「言ったでしょ?山場を乗り越えられたのは佳衣のおかげだからね」

 「みなさん、ありがとうございます…」

 挨拶代わりにとお母さんと用意したお菓子を鞄から取り出した私は、まず今日リモート出勤の皆さんの分を伯父さんに手渡す。「若いのにしっかりしてる」とまたたくさん褒めてもらって、田賀さんと滝元さんにも配って、そして私は平常心を保ちながら…片桐さんの分を手に持った。これをできるだけ自然に渡して頭を下げて、すぐにここから出て行こう。もう片桐さんの顔を見る勇気はないけど、これが最後なんだから、どうしても今までのお礼を言いたい。無視されないかすごく怖いけど、今言わなかったらきっと一生後悔して………

 「ほら周も、…………周?」

 「周くん?どうしたの」

 「具合でも悪い?」

 …勇気はもうないはずだったのに、その3人の言葉で一気に心配になった私は、つい奥の席に目を向けてしまう。

 「片桐さん…?」


 片桐さんは―――マスクをしていてもわかるほど真っ青な顔で、その場に立ち尽くしていた。


 「大丈……」

 「…………後?」

 「え?」

 思わず掛けた私の声を遮って片桐さんが何か呟いた、それを聞き返した時には―――私はすれ違いざまに勢いよく右腕を取られて、部屋から連れ出されていた。

 「え?えっ?」

 今起こっていることに頭がまったくついていかない。鞄を落とさないように持ち直すのが精一杯で、持っていたはずのお菓子はいつのまにかどこかに消えていた。足がもつれて転びそうになると、強い力で引き上げられる。廊下を進むペースはどんどん早まり、やがて西側の階段が視界に入って……私は片桐さんがどこへ向かっているのかがわかった。




 この一ヶ月ですっかり登り慣れた階段に、私と片桐さんの足音だけが響く。何度もここを通って会っていたのに、そういえば一緒に登るのはこれが初めてなんだと気付いて、こんな時なのに感慨に浸れる自分が自分でも可笑しかった。

 3階を折り返したところで、見たことのないオレンジ色の明かりが上から降ってきて……いつもの屋上手前の踊り場まで着くと、それが扉の窓から強烈に差し込む夕日のせいだとわかった。

 「最後って……最後ってなんだ」

 肩で息をする私の眼前に、手を離した姿勢のまま片桐さんが立っている。私より上の段にいるせいで、顔が逆光になってよく見えない。

 「ですから、バイトは、今日で終わりで……」

 「終わり…?………次は?次はいつ来んだよ」

 こんな単純な話がなぜかうまく通じないのを不思議に思う。いつも仕事を誰よりも多くバリバリと捌いている片桐さんからは想像もできない。

 「もう、来ないです。辞めるんです」

 「来ない………?」

 …声でありありとわかるほど、片桐さんは愕然としていた。


 「ウソだ、ダメだ、んなのダメだろ、来てくれ。…来てくれりゃいいから」


 不安定な言葉と一緒に、再び片桐さんの手が私に伸びてきて―――腕を掴む直前で止まって、ぱっと離れた。

 私は身動きひとつしないまま、片桐さんの瞳を見つめていた。今、確かに大きく揺らいだ……4日前、最後にここで話した時と同じように。

 「もう絶対触らねーから、だから……来てくれ」

 また、話がおかしな方向に曲がる。

 「触らないのは、関係なくないですか…?」

 「なんでだ…あんだろ」

 どこかで話が決定的に通じなくなっている。痛々しいほど青ざめている片桐さんをこれ以上見ていられなくて、私ははっきりと問いかけた。

 「どうして、そう思うんですか?」

 片桐さんは幾度か瞬きをした。それがはっきりと見えるくらいには、いつのまにか夕日は角度を変えてビルの間に落ちつつあった。

 「……小崎が言ってた」

 意外な名前が出てきて、私は驚く。

 「小崎さんが…?」

 「前に病院行ったの喋ったら……ジョシコーセーからすっと俺らみてぇな年の男はオッサンで、触んのは犯罪だって。通報されるっつってた」

 「…………………」

 病院で、というと……私がコロナに罹ったと勘違いして、片桐さんが腕を掴んだ時のことだろうか。「触った」とだけ聞けば一般的には確かに犯罪かもしれないけど、あの時もそれ以降も、片桐さんは小崎さんが思っているような触り方をしていないことだけは確かだ。というか、あの件を一体どういう風に話したらそうなるんだろう…?


 「でも、お前見てっと……なんでか手が出る。だから見んのやめた。見ねーし、触らねーから、来てくれりゃいい。…そんだけでいいから」


 縋るような声音を聞き終わる前から、私の胸は痛いくらい大きな音を立てて鳴り始めていた。

 だって、今までの人生で、私はこんなにも誰かに必要とされたことなんてない。前までは『顔を見たい』と言ってくれていたのが、それすらもなくなって、『私が傍に居ればそれだけでいい、他に何も望まない』…片桐さんは今確かにそう言っている。告白じみた単語はどこにも入っていなかったけど、それは――私にとってこれ以上ないほどの愛の言葉だった。

 私の返事はとっくに決まっている。でも、片桐さんの望み通りここに来ることはできない。それを…どうやってわかってもらおうか。

 「…片桐さんの言っていることは、わかりました」

 「!んじゃ……」

 「いえ、でも、本当にもう会社には来られないんです。片桐さんのせいとかじゃなく、元々バイトは夏休みまでっていう約束だったので…」

 「は………」

 片桐さんが目に見えて落胆するので、私は逸る気持ちを抑えて順に言葉を繋ぐ。

 「なので、会社では会えないけど………社外で逢うなら、できます」

 「社外…………社外で???いやムリだろ」

 片桐さんの顔には完全に『理解できない』と書いてある、けれど私は怯まない。このものすごく律儀な人は、私たちの関係は『同じ会社で働く社員とバイト』でしかありえない、と思っているんだ。

 「その前に、確認ですが……私の顔が見たい、って言ってくれましたよね」

 「あ?…ん、言ったな」

 「ひょっとして、毎日ですか?」

 「…そーかもな。けど土日はフツーにムリだろ、バイトねーし」

 「じゃあ、土日に逢えなかった時、寂しいと思ったりしましたか?」

 「寂しいとかはよくわかんねーけど……なんか、穴が空く気がすんだよ」

 「それで、逢ったら逢ったで、触りたくなる…んですよね」

 「……ん、色気もねえガキ相手になんなんだかな俺も」

 本人相手に面目なさそうにそう言い切られて、私はついに吹き出した。高3で化粧もしなければスカートの丈も校則通りの自分に色気がないのは自分でもよくわかっているし、10歳も年下の自分がガキに見えるのも当然だ。そこは全然ショックじゃなくて、そんな私だとわかった上で尚『触りたい』と思ってくれるのなら…その気持ちは絶対に嘘じゃないって言ってくれたも同然だから。

 「んだよ…笑うなって」

 「すみません。…でもこれで、片桐さんがそうなったのは何故なのか、私にはわかった気がします」

 「ん、どーゆーことだ?」

 「…多分、私のことを、………好きになってくれたからだと思います」

 「スキぃ???はぁ?なんでそーなる……」

 片桐さんにはなくても、私には確信があった。


 「――私も、片桐さんに、まったく同じことを思ってるからです」


 片桐さんがそのままの姿勢で固まった。次に、パチパチと音が聞こえそうなほど瞬きしながら、右手が力なく宙を彷徨い、人差し指で私を指さす。

 「は?……………………お前が?…同じ?」

 私ははっきりと頷いた。

 片桐さんはふいと顔を逸らすと、頭をガリガリと掻く。それから、左手をポケットに入れてすぐに出したかと思うと、突然天井を見上げて…………

 「ほんとか………俺と、同じこと思ってんのか?」

 「はい」

 「俺なんか、オッサンじゃねーのかよ?」

 「私だって、片桐さんから見たらガキですよね?」

 「う…………、んじゃお前、マジで……俺が、スキなんかよ?」

 「…はい!」


 勢いのある返事に驚いたのか、片桐さんがこちらを向いて―――その顔は真っ赤になっていた。顔だけじゃなく耳や首まで、マスクをしていても見間違えようがないほど。


 「好きって……こーなんのか………」

 今まで沢山の人と付き合ってきたと言っていたのに、片桐さんは…まるで初めて誰かを好きになったかのような言葉を呟いた。顔色と相まって、とても嘘をついているようには見えない。…ひょっとして片桐さんは今まで、人一倍綺麗な顔のせいで恋人を作る順番が逆だったのかもしれないと私は思った。好きになる前に恋人になって、まだ気持ちがはっきりしないまま別れてを繰り返していたとしたら…。もしかしたら、恋人にならないうちに別れてしまっていたのかも。

 私だってそうだ。中2の時、同じ美術部の先輩に告白されて付き合ったことはあるけど、その時の気持ちと今感じている気持ちはまったく違う。あれはきっと、毎日2人だけでメッセすることや、手を繋いだことに対してドキドキしていた……恋に恋していたんだ。だから、先輩が高校に行って自然消滅したのになんのダメージもない。

 でも、今は…片桐さんの顔を見ていたい。会えないと淋しい。くだけているのに真っ直ぐないつもの口調でいろんな話をしてほしいし、私の話を聞いてほしい。見つめられると、触れられると、ただそれだけで嬉しい。笑ってくれると幸せな気持ちになる。片桐さんと居ると胸が痛いくらい鳴ったり、ぎゅっと掴まれたように苦しかったり、普段の自分からは想像もできないくらい心が動く。全然、冷静でなんていられない。


 本当は、ずっと前からわかっていた。―――これが、恋なんだ。


 「お互い好き同士なら、恋人になってもよくて、恋人同士なら……どこで逢っても、いいんじゃないでしょうか?」

 「そ、ういう、ことかよ…………裏技すぎんだろーが」

 「そうなのかな……片桐さんは、どう思いますか?」

 「いいに決まってんだろ!?」

 期待と不安が半々の私に、片桐さんが噛みつくように答えたかと思うと……私の両手が握られた。初めてまともに繋いだ片桐さんの手は、いつも見ていた通りに大きくて、指が長くて、そして…温かかった。遮られる髪のなくなった瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。


 「なら、今からコイビトだぞ。…いいな?」


 私はそれをしっかりと握り返した。思いの外はっきりとした言葉がもらえたのが嬉しくて、でも少し恥ずかしそうに言ってくれたのがなんだか可愛くて、知らずに笑みが零れる。

 「はい!」

 「!……………あのなぁ…なんつー目しやがんだ」

 「え?嬉しかったので……ひゃっ?!」

 私は素っ頓狂な声を上げた。いつのまに段差を降りてきていたのか、握手していたはずの片桐さんの手が滑るように私の肩と腰に移動している。

 「もういーんだろ、触っても」

 そのまま手が背中に回されて、距離がこれ以上ないくらいに近づ……く前に、私は慌てて片桐さんの胸に両手を当ててつっかえ棒にする。

 「ん?」

 「ちょっ、あの、ここ……会社なので!だから今は、その、ええと」

 …我ながら呂律が回ってなさすぎる。顔色が落ち着いてきた片桐さんとは逆に、自分の顔がすごく熱を持っているのもわかる。本当に嬉しいけど本当に恥ずかしくて、心の準備もできないままあたふたする私をしばらく眺めると……片桐さんは、今までで最高に微笑んだ瞳を見せてくれた。

 「…わかった。会社じゃなきゃ、いーんだな?」

 頷こうとして、舞い上がっていた私はふと我に返った。


 …さっき手を消毒したのはいつだった?


 一度コロナのことを思い出すと止まらない。制服で学校からそのまま来てるから…今日は何人くらいの人とすれ違っただろう、その中にマスクをしていない人はいた?何人くらいの人と、どれぐらい会話した?

 今の私は………片桐さんに触れても大丈夫?

 「だと、思ったんですけど……今は、濃厚接触になっちゃいますよね…」

 「はぁ?ノーコーセッショク???」

 豆鉄砲を食らった片桐さんに、私はかいつまんで説明した。『手が届く距離で、15分くらい会話する』――これでどちらかが感染しているとわかった場合、もう1人は濃厚接触者となり、うつっている可能性がある。触れるくらい近くなら当然確率も上がるだろうし、まして、口や目に…その、飛沫が入るようなことをすれば…。

 「なるほど、お互いに感染させるリスクが高いっつーことか」

 片桐さんは真面目に聞いて理解してくれたようだった。ホッとする一方で、私は急に怖くなる。

 こんな面倒くさいことを言い出して、せっかくのハグを拒否るような恋人…片桐さんはさっそく後悔するんじゃないだろうか?それに、「じゃあいつならいいんだ」と聞かれてしまったら、私には答えようがない。『コロナが収まるまで』だったとしたら…あまりにも長すぎる以前に、それがいつ来るのかなんて誰にもわからない。それまで片桐さんが待っていてくれる保証だってない、それならいっそ今だっていいのでは?でも今は第2波の真っ只中で、既に無症状で感染している可能性は誰にでもあって………

 「………どした?なんか考えてんだろ」

 低くて優しい声が上から降ってくる。どうやっても思考が行き詰まってしまった私は、半分泣きそうになりながら不安を伝えた。

 「せっかく恋人になれたのに、感染ばっかり気にして、呆れられてませんか……?」

 「あ?仕方ねーだろ」

 くしゃりと髪が掴まれて、そのまま大きな手がわしわしと私の頭を撫でた。

 「お前がそんだけ俺にコロナに罹ってほしくねえっつーことだろ、…俺が嬉しくねーと思ってんのかよ?俺だってお前にうつしたくねーわ」

 「!………はい…!」

 片桐さんはちゃんとわかってくれていた。やっと安心した私が、頭を撫でられるままになっていると……

 「んじゃ、その辺は俺が考えとくから、今は―――そーだな、ちょっと息止めろ」

 「…?????」

 突拍子がなさすぎて、まったく意味がわからない。

 とりあえず言われるままに私が息を大きく吸って止めると、頭を撫でていた手が私の後頭部を掴んで、そのままぐいと引き寄せられて、もう片手が顎に添えられたのがわかって、


 ―――次の瞬間、マスクごしに柔らかいものが唇に触れて、すぐに離れた。


 「………………………えっ?」

 「しょーがねーからこれで我慢だな」

 何事もなかったように片桐さんが身体を離す。私は思わずマスクの上から自分の口を押さえた。

 「い、今………?!」

 見下ろす目は確かに微笑っていて、今この綺麗な顔が超至近距離に入ってきたような、でももちろん嫌なわけがないし、あ、「息を止めろ」って言ったのは、お互いの飛沫を吸い込まないため?というか、ええと……マスクが間に2枚挟まってたけど、これは、ファーストキスに、なるんだろうか…?!

 「次は、いつ会えんだ?」

 大混乱したままの私に、片桐さんが2人の未来の話をする。

 「受験が、終わったらですね……」

 「………ん、わかった。頑張れ」

 何段か階段を下った片桐さんが、私に向かって手を差し伸べてくれる。

 「…はい!」


 終わりの見えないコロナ禍の中でも、希望がなくなるわけじゃない。

 今まで通り、私は今の自分にできることをしよう。自粛を続けて、感染に注意して、指定校推薦を戦い抜いて、受験に受かる。世界の感染状況が今より良くなることを祈りながら、コロナに罹らないように健康を維持して、この人と恋人として会える日を目指そう。

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