13. 綺麗でもボサボサでも

 「―――うん、うん。もう大丈夫。明日から出勤するね」

 8月23日。日曜日の夜、私は明日からのバイト復帰に備えて昭伯父さんと通話していた。

 お母さんは予定通り3日で退院できた。でも念の為仕事はもう何日か休んで家でゆっくりしてもらい、私とおばあちゃんは2人で一生懸命看病と家事をした。けど、逆にお母さんの方がゆっくりしすぎで申し訳なさすぎてしまったらしく、普段通りの家事分担に戻してもう3日が過ぎていた。

 『…といっても、もう来週で終わりか。早いもんだね』

 「うん、テストとか看病とか、沢山休んじゃってごめんね」

 『いいんだよ!元々夏休みだけでもって話だったし、佳衣のお陰で溜まりに溜まってた入力業務がほぼ解消したからね。これでやっとみんなの残業がなくなるよ』

 「そう…?それなら良かったけど」

 『マスクフィーバーも完全に落ち着いたから、新しくバイトや社員を増やさずに乗り越えられて、ちょうどよかったよ』

 「そっか、役に立てて良かった……」

 私はスマホ片手に壁のカレンダーを確認した。24日から28日までの5日間が、私の最後の出勤日になる。次の週、8/31から新学期が始まれば、すぐに指定校推薦枠の学内考査がスタートして最高に忙しくなる予定だった。もうくすりのタナハシの皆さんと…片桐さんとも、会える機会はなかなかないだろう。その代わり、今回のバイトで得た貴重な経験は、面接でもしっかり話すつもりでいる。

 『どうした?佳衣』

 「…社員の皆さんに、すごく良くしてもらったから…ちょっとお別れが辛いなって」

 『ああ…そう言ってくれてありがとうな。コロナ禍じゃなきゃ、仕事の後にお別れ会ぐらいできるんだけどな…』

 「いいよいいよ、5人以上の会食禁止だし、クラスターになったら大変だから」

 『そうだなぁ…リモートワークの意味がなくなっちゃうもんな……』

 伯父さんはなにかしらの会ができないかしばらく頭を捻ってくれたけど、私は心から有り難いと思いつつも遠慮した。私のさよならパーティーなんかで皆さんがいっぺんに感染して業務が止まったりしたら、人生最大の後悔になってしまいそうだ。

 『そうだ!佳衣はお休みだったから知らないだろうけど…周がな』

 「えっ」

 久しぶりに名前を聞いただけで、心臓が跳ね上がる。

 『あいつずいぶん変わったぞ、みんなびっくりしてる』

 「変わった……?」

 『うん、この夏くらいかな、また随分丸くなったって古株の社員さんとも話してたんだよ。まあ…入ったばかりの頃は、いつもビクビクしてるか尖ってるかでな、可哀想なくらいだった。でも性根がいい子だからなぁ、一生懸命仕事してくれて、気がついたらとんでもなく優秀になってたよ。佳衣にもわかるだろ?』

 「うん……」

 スマホの向こうから流れてくる伯父さんの声は、まるで本当の息子のことを話しているみたいだった。そういえば、本当の息子の晴日はるひくんはたしか26歳じゃなかったかな…お姉ちゃんの5つ上だから多分そうだ。今回のバイトで会えるのかなと思っていたけど、今はくすりのタナハシの次期社長になるために、全部の店舗の副店長さんを順番にやっていると聞いた。いつの日か、昭伯父さんが引退して晴日くんが会社を継いだとしたら、きっと片桐さんは伯父さんに頼まれて、優秀な右腕として新社長を支えていくんだろうな。なんだかそれはすごく素敵な未来のような気がして、私は自然と笑顔になっていた。片桐さんにはずっとずっと先までちゃんとした居場所があるんだ……私がいなくなった後も。




 ―――じゃなくて。

 「よお、ニレケイ」


 昭伯父さん!

 丸くなったとかはいいから!!

 物理的に変わってるから!!!

 それをちゃんと教えてほしかったーーーー!!!!!


 私は心の中で4回絶叫した。次の日の昼、階段の上で先にお昼を食べ始めていた片桐さんは……誰が見ても『ずいぶん変わって』いた。

 とにかくまず髪がない。いやあるにはあるけど、前も後ろも顎下くらいまで伸ばし放題だったボサボサの髪が、耳の上くらいの長さでバッサリと切られてなくなっていた。それでも本人的にはまだ長かったのか、左側だけを耳に掛けて大きく分け目を作っている。

 それによってどうなったかというと…顔が出てしまった。上から下まで、綺麗な顔面が余すところなく。今は食事中でマスクもしていないし、とにかく威力が半端なさすぎて、この隣に座ってごはんを食べるのが最高に難しいミッションかなにかのような気がしてくる。しかもいつも私が左側に座っているから、分け目がちょうどこちら側になって…本当に何も遮るものがない!

 ぽかんと口を開けて突っ立ったまま動けない私を見下ろしながら、徹頭徹尾片桐さんは楽しそうだった。

 「なんだよ、社長からなんも聞いてなかったんか?」

 「聞いてたけど、聞いてませんでした………」

 「なんだそりゃ?」

 いつものカフェオレを飲みながら愉快そうに口角を上げる、それだけでイケメンオーラが眩しすぎて直視できなくなる…ような錯覚にとらわれて、私は微妙に目を逸らす。

 「切った次の日、出勤したら全員今のお前とおんなじカオになってよ、こんなおもしれーならもっと早く切るんだったな」

 そりゃあ誰だってなりますよ!と悲鳴を上げそうになって私は口をつぐんだ。まだ予備知識(?)があった私はともかく、女性社員の皆さんは一体どうなってしまったんだろう……無事を祈るしかできない。じゃなくて、今はそれより、顔を見られることをあんなに疎んじていたはずの片桐さんに一体何があったのかが先だ。髭はなくなってもマスクがその代わりをしていたけど、髪は最後の砦だったんじゃ……?!

 「あの、というか、どういう心境の変化なんですか…?」


 「あ?「できるだけ清潔にしろ」っつったの、お前だろーが」


 …すぐには言葉の意味がわからなかった。私は再びぽかんと立ち尽くしながら、片桐さんに最後に会った一週間前を思い出す……病院のベンチで話をして、最後に別れる時に―――

 「………あ、…ああっ!あれですか?!」

 「やっと思い出したか」

 私の、せい、だったんだ…!!決して軽率に言った言葉ではなかったけど、まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。血の気が引いた私に気付いたのか、少し慌てた様子で片桐さんが言う。

 「や、元々切り時で、洗うのラクにしてくれっつったらこーなっただけだ」

 「…な、るほど………」

 それはそうだ、顔が見えないくらい長い髪は、短くなった方が基本的には洗いやすくて清潔だろう。でも、その代わりに顔がハッキリ見えてしまうから…極端な話、もし切った美容師さんが女性だったら、片桐さんは切った瞬間から例の嫌な思いをしたかもしれない。その原因を作ったのは……私だ。あまりの申し訳なさにもう顔を上げることができず、片桐さんの足下辺りしか視界に入れられなくなった私は――ふいにスラックスがいつものようにシワシワでないことに気がついた。それどころか、ピシッと売り物のような折り目さえ付いている。

 「あ、あの…スーツ、どうしたんですか?すごく綺麗というか…」

 「ああ、プレッサー?っての買った。高温でアイロンすんだからエーセー的だろ?てかすげーラクだし、こんなんあるならさっさと買やよかったわ」

 ああ…お、お金を使わせている…!!プレッサーが何かはいまいちわからないけど、聞いた限りとてもよい効果には間違いないし、スーツがすごく素敵でもあるけど、とにかくこれも私のせいだ…!!どうしたらいいんだろう、いくらぐらいしたんだろう……素敵さと申し訳なさとコロナ対策への安心が一気に押し寄せて、私の頭の中はぐちゃぐちゃになる。

 「あ?…どーした?」

 「ご…ごめんなさい!!」

 私は階段にぶつける勢いで頭を下げた。上からしごく不思議そうな声が降ってくる。

 「?なんで謝んだよ」

 「だって…私があんなこと言ったせいで、片桐さんは顔を見せたくないって言ってたのに…お金も使わせちゃって、……私………」

 「は???………いいか、ニレケイ」

 大きなため息の後に名前を呼ばれて、私は恐る恐る頭を持ち上げた。片桐さんの顔は、もちろんとても綺麗だったけど……どこか悲しそうで、

 「お前は、俺にヤな思いさせたり、金使わせるつもりで「清潔にしろ」っつったのか?」

 私は即座にぶんぶんと首を横に振った。本当に、本当にそんなつもりはこれっぽっちもなくて、ただ――


 「だろ?お前は、……俺にコロナに罹ってほしくねーから言ったんだろ?」


 「は…はい、そうです」

 「ん。だったら、別になんも悪くねーだろ」

 「……はい…ありがとう、ござい、ま………」

 最後の方は声にならなかった。つまり、片桐さんは、また女性に顔を気に入られて嫌な思いをするよりも、お金を使ってでも、私のお願いを真剣に考えてくれたって…ことなんだ。あのたった一言を聞き流さずに、ここまで真摯に捉えて行動に移してくれた、その気持ちがただ本当に嬉しくて……私はもう涙が堪えられなかった。泣いたらだめだ、片桐さんがもっと気に病んじゃう――そう思って顔を両手で覆ったけど、両手の間から漏れる嗚咽が階段に響く。

 「………泣くなよ」

 「ごめ、なさ………」

 「っ、違ぇ、もう謝んな。……俺ぁ、お前が喜ぶと思ってよ。だから謝んなくていい」

 わかってます、嬉しくて泣いてるんです、泣いてばかりで言えなくてごめんなさい。伝えたいことは胸に苦しいほど溢れてるのに、言葉の代わりに涙しか出ないのが悔しくて、でも止められなくて―――

 気付いた時には、すぐ目の前から優しい声が聞こえていた。

 「おら、これ」

 私の両手首が長い指に絡め取られて、片手でまとめて顔からゆっくり引き離されたかと思うと、私のぐちゃぐちゃな顔にぬるくて湿った布が押し当てられた。ぞんざいに目と鼻の辺りを拭かれたあと両手の拘束が解かれたので、私はそれでもう一度自分の顔を拭き直した。手触りからいうと…これは多分コンビニでもらえるおしぼりで、そういえば前にも片桐さんの前で泣いてしまった時に、手近なウェットティッシュで顔を拭いたことを思い出す。色気も何もないけれど、ハンカチや服の袖で拭くよりはよっぽどコロナ的には安全だと思うから、もしも片桐さんがそこまで考えた上でこれで拭いてくれたんだとしたら………

 「おま……何笑ってんだ」

 おしぼりから顔を離すと、憮然としたような、困ったような片桐さんの顔が目の前にある。こんなに綺麗すぎる顔がこんなに近くて、さっきまでは全然直視できなかったはずなのに…今はもう何も気にならない。

 綺麗でもボサボサでも、この目、この口調、この優しさ―――片桐さんは、片桐さんだ。

 まだ震える唇で、私は一番伝えたい一言をなんとか絞り出す。ちゃんと聞き取れる大きさで、できる限り口をしっかり開けて、

 「……嬉しくて……、」


 ――次の瞬間、私の両手首は再び片桐さんに掴まれていた。今度は片手ずつ別々に掴まれたせいで、私が両手で持っていたおしぼりがひらひらと階段に落ちていく。

 片桐さんの瞳は真っ直ぐ私の瞳を見ていた。私は吸い込まれるようにそれを見つめ返していて、―――突然片桐さんの瞳が大きく揺らいだかと思うと、ぱっと両手が離される。


 「…………悪ぃ」

 片桐さんは私から身体ごと目を背けた。すぐに階段を登ると、さっきまで食べていた昼食の残りを急いでコンビニ袋にしまい込む。

 「…片桐さん?」

 「………行くわ、仕事あっから」

 目も合わせずに呟くと、私の脇をすり抜けて、片桐さんは階段を降りていった。




 それを最後に、片桐さんが私を視界に入れることはなくなった。

 業務上話すことはあっても、目線が合うことはない。次の日からは階段の昼食にも現れなくなって、最初はお休みなのかと思ったけど、午後の仕事には普通に出勤しているから、食べる場所を変えたんだとわかった。他の人とは目も合わせているし、今までと同じように接しているように見えるけれど、ただ私に対してだけはまったく態度が違う。私の顔を見ないと調子が狂う、そう言って写真まで撮ってくれた人は、全力で私を避けていた。

 ――嫌われてしまったのは間違いない。でも、どうして急に嫌われてしまったのかはわからなかった。

 可能性はひとつ。あの時に『顔のせいで態度を変えた』と思われてしまった、これしかない。私の片桐さんへの気持ちが溢れかけていたのは確かで、それがたまたま髪を切った日と同じだった――それは不幸な偶然だったけど、片桐さんがそう感じてしまったのなら、弁解はしたくなかった。例え約束を破ったと思われても、あの人の傷をこれ以上土足で踏み荒らすような真似はしたくない。

 「いやー…それにしても、ほんっと!顔がいい!」

 「うっせーな、何回目だよ日野…」

 「まあいいじゃない、嘘ではないんだし」

 日野さんと横山さんのコメントも、今やすっかり日常に溶け込んでいた。これだけの美形を前にして黙っているのは難しいというか、反応せずにはいられない気持ちは私にもよくわかる。片桐さんと年の近い女性社員はこの2人だけで、2人とも多少見る目は変わったのかもしれないけど、露骨に態度を変えるようなこともなく、今日も普段通りに仕事を進めていた。今まで片桐さんがどんな女の人と出会ってきたのかはわからないけど、少なくともくすりのタナハシのみんなは、あっという間に事実を普通に受け入れていた。

 片桐さんに必要だったのは、きっかけだったんだと思う。私自身は『顔を理由にコロッと態度を変えた異性』の1人にすぎなくなってしまったけど、ここのみんな以外にも、片桐さんの顔に目が眩まずに中身を見てくれる人はいくらでもいるはずだ。むしろ、素顔が見えていれば、最初の私みたいに『怖い人』だと誤解される機会も減るに違いない。片桐さんは本当にいい人だから、心底もったいないと思うから。


 避けられてはっきりわかった。私は、片桐さんに特別な気持ちを抱いている。

 片桐さんも何かを想ってくれているのは感じたけど、あれはやっぱり…おかしな提案を仕掛けてきた子供相手に少し心を開いてくれただけで、それも今や跡形もない。

 それに……そもそも27歳の大人の男性に、17歳の私が釣り合うはずもない。こうして端から見ていても、日野さんや横山さんのほうがよっぽどお似合いだった。


 ……もう、私の役目は終わったのかな。ちょうど明日でこのバイトも終わるんだし、これでいいのかもしれない。

 短期のバイトで偶然出会えて、何度も温かい気持ちをもらって、そのお返しにあの人が大きく変われるきっかけを作れた。それだけでも十分なくらいだ。


 この気持ちは、恋なのかもしれなかったけど、恋にならずに終わった。

 きっとそうだったんだ。

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