12. どうして来てくれたんですか

 8月14日。学校の後、いつもと同じように西階段を登ろうとした私のスマホが鳴った。お父さんからだ…今日は仕事のはずだけど、休憩中かな?


 「お母さん、が―――肺炎?」


 手から滑り落ちたスマホが床に転がる。一瞬後、それを拾った私は、堪えきれずに出口に向かって駆けだしていた。

 ここ数日、お母さんの具合がなんとなく悪かったのは家族全員が把握していた。コロナ禍になってから、家族の不調は全員で共有するようにしていた…というか、家族内感染には人一倍敏感にならざるを得ない職場だったから当然だ。けどまさか、私が家を出た頃にお母さんが職場で発熱して倒れ、そのまま職場で診察を受けて肺炎と診断されて緊急入院する、なんて急展開が予想できるはずもない。

 今月に入ってからは感染者数も春を越えて上がり、完全に第2波を迎えたとニュースが騒ぎ立てているいま、肺炎……目の前が真っ暗になった私を、電話の向こうのお父さんの声が救った。


 「佳衣、落ち着いて。コロナじゃないんだ。細菌性の肺炎だって」

 「さいきんせい………?」


 病院は24時間空調管理しているせいで空気が乾く、だから夏でもナースステーションには加湿器があるらしい。一週間ほど前、歯磨きのついでにお母さんが加湿器の掃除をしていた時、中にオレンジ色の何かがこびりついていたのには気付いていたらしいけど…それが、レジオネラ菌というものだったらしい。掃除をしながらそれを吸い込んでしまった結果、肺炎にかかったのではということだった。

 ―――でも、肺が弱っているところでもしコロナに罹ったらどうなるの?お母さんの勤務先は感染症指定病院なのに、もし接触があったら…!ああ、その前にレジオネラ肺炎はどのくらいで治るんだろう?治る病気なんだよね?すぐ退院できるよね?

 不安で叫び出しそうになりながら、私は必死で自転車を漕ぐ。




 その5時間後――私は病院入り口のベンチで空をぼうっと見上げていた。

 急いで病院に来たものの、コロナ禍のせいで面会は全室禁止。付き添いにも制限があって、入れたのはお父さんだけ。そのお父さんも病室に入ることはできないほどの厳戒態勢ぶりだったらしくて、私は逆に少し安心した。幸いにも、早期発見できたお母さんは薬で治るということだったけど、念の為に明日からの土日は検査も兼ねて入院することになった。お父さんは入院書類を書くと遅れて会社に出勤し、後はバトンタッチした私が入院に必要なものを家に取りに帰って病院にデリバリー。おばあちゃんは今日から3日間、私と家事を頑張る係になってくれた。

 お母さんの入院日数がはっきりした時、お父さんに言われて急いで昭伯父さんに電話を入れた。実の妹の突然の入院に電話の向こうで飛び上がりそうなほど驚いていた伯父さんは、コロナじゃないとわかると一旦深く息をついていて…今の時期は十人中十人が同じ反応になると思う。その後すぐに、「うちのことは気にしないでいいから、一週間はお母さんの傍にいてあげなさい」と言ってくれて、お父さんと相談した結果、私たちはその言葉に甘えさせてもらうことにした。お母さんが退院しても、肺が弱っている以上しばらくの間は家から出るべきじゃないし、その間代わりに外に買い物に出るのは私の役目だと思うから。

 全てが急に決まってバタバタだったけど、寝間着やタオル、洗顔用品なんかをまとめたバッグを、17時前に受付の看護婦さんに手渡すことができた。でも本当に手渡すだけで、お母さんの顔どころか何階にいるのかすらわからないままで……そのまま家に帰る気にもなれず、私は駐輪場近くの誰もいないベンチに腰掛けた。少しでもお母さんの傍に居たかった。

 メッセでお姉ちゃんにも事情を説明しおわった頃には、夕日と青空が混じって空が2色になっていた。綺麗な空を見上げていたら――ふいに片桐さんを思い出した。一緒にお昼、食べられなかったな…。急にお休みしちゃったし、他の社員さんにも迷惑がかかって……

 と、ポケットの中でスマホが鳴る。帰りが遅いからおばあちゃんが心配したかな、と慌てて見ると、伯父さんからのメッセだった。

 『そっちに周いない?』

 ……私は意味がわからずに3回読み返す。多分伯父さんは誰か他の社員さんと間違えて私に打っちゃってる、よね。こういう時ってなんて返せばいいんだろう…「間違えてるよ」って言うのも悪いかな?

 『いないけど、どうしたの?』

 『さっき周に佳衣のこと聞かれて、病院の名前を言ったら、残業なしで退勤していて』

 していて、…どうしたんだろう?ここで切られるのはすごく気になる上に、間違いかどうかもまだわからない。伯父さんは打つのがあんまり早くないし、待ちきれなくなった私は先に返事を打ち始める。確かに…片桐さんが残業なしで帰るのはバイトを始めて以来見たことがないけど、

 『さすがに、ぐうぜ』


 私はそれ以上先を打てなかった。目の前の車寄せスペースで、見慣れたボサボサ頭の人が、慌てた様子でタクシーから降りていたから………


 私は思わずその場に立ち上がった、けど驚きすぎて声が出せない。その間に、降りた人は長い足でつかつかと病院の入り口に歩み寄る、けど17時を大きく過ぎているから当然扉は閉まっている。しかし諦めた様子は見せずに、今度は建物に沿って歩きながら、多分別の入り口を探して………ベンチの前に突っ立っている私に気が付いた。


 「にっ、れけい………!!」


 髪で顔が見えなくても、その呼び方で誰なのかが確定した。ずんずんと早足で私の前に歩いてくると、片桐さんは―――ぱしんと音を立てて私の手を取った。

 「っにやってんだこんなとこで!早く部屋に戻れ!」

 そう言うなり、手を引っ張って歩き出そうとする。ぱっと見は針金みたいに細い身体つきなのに、その力強さは軽く衝撃だった。

 「ま、待ってください」

 「待てるか!っていうか普通に息できんのか、大丈夫か?!」

 振り向いた勢いで髪が乱れて、やっと片桐さんの目が見える。それは仕事中でも見たことがないほど真剣な色を湛えて、真っ直ぐに私の目を見つめていた。

 「私は、大丈夫です」

 「何が大丈夫だ、入院……」

 「したのは、母ですよ…?」

 片桐さんの動きがぴたりと止まる。

 「……………は?????」

 「はい…あの、入院したのは、私の母です」


 「……………………そーかよ……」


 両肩が一気に下がって、私を掴んでいた手がぶらりと垂れ下がり――片桐さんは目に見えて脱力した。

 「わっ、片桐さん?!」

 そのままふらりとよろけそうな勢いだったから、今度は私が慌ててワイシャツの腕を掴む。大きな身体に四苦八苦しながら、さっき座っていたベンチにゆっくりと連れて行った。




 「――社長に聞いたら「総合病院に入院した」っつって、滝元のおっさんが「コロナ受け入れてる病院だ」っつーから」

 「それで私がコロナに罹ったと思ったんですね……」

 「そーなるだろ、フツー」

 私と片桐さんはベンチで答え合わせを済ませる。伯父さんが言い間違ったか、みんなが聞き間違えたのかはわからないけど、会社で私は大変な誤解を受けていたらしかった。それなら、さっきの片桐さんの勢いも説明がつく。急に休んだ私のせいなのは間違いないから、次のバイトの時に皆さんに謝ろう…。

 「んで、オヤの部屋もわかんねーのか」

 「はい。でも、誰も入れないなら、その方が安心だから」

 「……なるほどな」

 お母さんの病気についても説明させてもらった。片桐さんは頭の後ろで手を組むと、ベンチにどっかりと深く腰掛けなおす。この三週間で見慣れたジャケットなしのワイシャツにスラックス、スニーカーソックスに尖った革靴。本当に会社から直行してくれたんだなと思うと―――じゃなくて、

 「そうだ!昭伯父さんからメッセが来てて、片桐さん、残業しないままいなくなったって」

 「………あー、今日は平気だ」

 「でも、いつもは…」

 「ちゃんと終わらせてあっから。…俺から社長に連絡入れとくわ」

 言い終わらないうちに、ポケットから出したスマホを打ち始めた片桐さんに、私は……どうしても聞きたいことがひとつだけあった。


 「あの、…どうして、来てくれたんですか?」


 一瞬片桐さんの指が止まる。

 「…そりゃあれだ、メシ喰いに来なかったろ」

 「それは…ごめんなさい」

 「コロナに罹ったんかと思ったしな」

 「はい、でもあの、…わざわざ、ここまで確かめに来てくれたのは……」

 「んーーーー………」

 どんどん尻すぼみになる私の声を聞きながら、打ち終わったらしいスマホをしまうと、片桐さんはぼそりと呟いた。


 「ここんとこ毎日カオ見てたかんな、なんか…調子狂ってよ。……よくわかんねーけど」


 マスクに隠れて見えないとわかっていても、私は片桐さんから顔を背けずにはいられなかった。この人は嘘をつかないし隠さない、本当に正直な人だから……今の言葉も本心のはずで、それが自分でもびっくりするくらい嬉しくて、きっと顔に出てしまっているから。週に5回、一緒にお昼を食べているだけの奇妙な関係だったけど、私はいつからかあの時間を心待ちにしていて、でも……まさか片桐さんもそうだったなんて、思いもしなかった。

 「そ…それで、逢いにきてくれたんですか」

 「逢いに…?」

 「だって、顔を見にきてくれたんですよね…?」

 「あー……そういうことになんのか」

 「ありがとうございます。…嬉しいです」

 やっと自分の気持ちを伝えると、片桐さんはどこか決まり悪そうに、長い足を組み替える。

 「は?俺が勝手に来ただけだろ」

 「はい、でも、私が…すごく嬉しかったから」


 「………ん、そーか」


 また片桐さんは笑ってくれた。辺りはもう薄暗くなってきたし、いつもの通り顔も見えないけど、私にはそれがはっきりわかった。前みたいに楽しげじゃなくて、聞いたことのないくらい柔らかい声だった。私を心配してここまで来てくれた、それだけで胸が温かくなるのに、私にはその言葉が勝手に「俺も嬉しい」って言っているように聞こえて、涙が込み上げそうになる。

 「オヤが良くなりゃ、また会社来んだろ?」

 「はい、それまでしばらくお休みします。片桐さんも、気をつけて、くださいね………」

 自分で言ってから、私はその常套句の重みが急に怖くなった。一家全員であんなに感染に気をつけて生活していたのに、お母さんは肺炎になった。『昨日まで一緒にいた大切な人が、今日入院して目の前から消える』――その恐怖をさっき私は初めて知った。何もできないまま自分の足下が音を立てて崩れていくような、完全な暗闇に閉じ込められるような、本物の恐怖を。

 「俺ぁなんともねーよ、お前こそ…」

 「だめです」

 自分でも声が固いのがわかる。

 「毎日できるだけ清潔にして、必ずマスクとうがいをしてください。母も…掃除の時にマスクを外してなければ、防げたかもしれないって、先生が…」

 大人の男の人に向かって、何度も生意気なことを言いつのっているのはわかっていた。しつこすぎて嫌われるかもしれないのに、それでも言わずにはいられない。今回、もし片桐さんと私の立場が逆だったとしたら、片桐さんがコロナに罹って突然入院したと聞かされたら……そんなこと、絶対に考えたくない。

 「わかった」

 片桐さんは、呆れたり邪険にしたりしなかった。たった一言だけ返事をすると、急に思い立ったようにスマホを取り出す。

 「そうだ……おい、ニレケイ」

 「え?」

 カシャ、と小さな音がして、反応した私の目の前に片桐さんの黄色いスマホがあった。

 「お前が来るまでこれ見りゃいーな」

 「ちょっ…!?」

 顔に出てしまっているどころじゃない、今度こそ私は自分が大赤面したのを完全に自覚した。名案を思いついた体で無邪気に喜んでいるこの人は、自分が『写真でもいいからお前の顔をいつも見ていたい』と言ったも同然なことに気付いて…いないんだろうか?本当に?嘘でしょ?

 「お、そろそろ暗くなっから帰んぞ。お前チャリだろ?」

 「は、はい………」

 私はそれ以上言及しないまま、片桐さんと一緒に席を立った。

 自惚れた勘違いはしたくない。でも、少なくともとびきりの親愛を示してくれていることは間違いなくて、それでも私には十分すぎるくらいだから。

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