09. 確かに優しかった

 コロナが『感染の第2波に入った』と騒がれ始めた7月22日、学校は夏休みに入った。タイミング良く学校に行かなくて良くなったと思いきや、私は普通に学校主催の夏期講習に参加申し込みしてあるし、陽奈と穂花は塾の集中講座で忙しい。受験生の夏なんてこんなものだとは思うけど、コロナのせいでろくに息抜きもできないとわかっているのが辛くはある。

 それなのにgotoトラベルはしっかり始まって、進学しないパリピ組は海だプールだと盛り上がっていたのを思い出す。開けていないはずの海水浴場に人が押し寄せて困っているとかってピンスタで流れてきたけど……テレビでクラスメイトたちを目撃せずに済むことを願うだけだ。…ただ、雨は未だに連日降り続いていて、浮かれた人たちの気分を削いでいる。今月に入ってから、止んでいた日はあっただろうか。


 平日の午前中、私は週5で夏期講習を受け、その足で午後からバイト先に行くようになった。朝家を出る時間がいつもより一時間遅くなったから、私は夏休み中は家族みんなのお弁当を作ると名乗り出た。うまくいけば来年からは大学生、金銭面で親に大きな負担を掛けるんだから、お弁当くらいは作れるようになっておかないと。ただ…急にできるようになるわけもなく、冷凍食品も使いつつ、おばあちゃんに手伝ってもらいながらだけど。

 くすりのタナハシの本社ビルは、神社通りの4階建てビルの2階フロアを貸し切っている。昼時の社内では、みんなが仕事をしながら交代でごはんを食べているから、午後から仕事の私がのこのこと出て行ってその中で食べるのはすごく気が引けた。けど、講習の後に学校に居残り続けてお昼まで粘るわけにもいかないし、一度家に帰るのも遠回りだし……

 色々考えた末、私が決めた場所は――本社ビルの4階階段踊り場、屋上の扉の前だった。


 今日も静かに階段を登り、誰も居ないのを確認してから、階段の最上階に腰を下ろす。ビルの中は上に登れば登るほど暑くはなるけど、今日も外は雨だし、廊下もガンガンにクーラーが効いているしで大丈夫そうだ。

 水筒とお弁当を取り出すと、私はそっとマスクを外す。今では毎日付けるのに慣れすぎてしまって、外した時の防御力のなさに少し不安になるほどだ。箸を出す直前にウェットティッシュで手を拭いて、その後は箸以外の物に触らないようにしつつすぐに食べ始める。今日のおかずはだし巻き卵と焼き鮭、にんじんしりしりにミニトマト。3回目にしてやっと綺麗に巻けるようになってきたし、だし巻き卵くらいはなんとかこの夏休みでマスターしてしまいたい。

 ……と、階下から足音が聞こえてきて、私は思わず身を固くする。

 別にここでごはんを食べていても怒られないとは思うけど、3・4階に入っている会社の人に見られたら部外者か疑われるかもしれないから、なんとなくコソコソしてしまっているのは間違いない。エレベーター近くの東階段を避けて、わざわざ西階段を選んでいるのも人通りが滅多にないからだ。それに、たまにマスクを付けていない人がビルに出入りしているのも見かけるし……コンビニやスーパーでも、マスクをしていない確率が一番高いのは何故かいつも『おじさん』だから、見つかって話しかけられたくない。そうだ、それよりマスク付けなきゃ…!


 「――やっぱ居たか、ニレケイ」


 「………???」

 慌ててマスクを付け終わった直後、ゆっくりと階段下から現れたのは見覚えのあるボサボサ頭――片桐さんだった。もふもふと鮭を咀嚼していた私は咄嗟に声が出なかったけど、口の中が空でも何も言えなかったと思う。なんでここに…?!

 「さっきここ登ってくのが見えたんでな」

 片桐さんはそう言うと、手に2つ持っているレジ袋のうち、大きいほうをガサリとこちらに突き出した。

 「……………???」

 「やるよ。何が好きか知らねーから適当に買ってきた」

 「…………………???」

 何もかもが突然すぎてさっぱりわからないけど、無視するのは失礼だ。私はとりあえずお弁当の蓋を閉めると、差し出してくれている袋を恐る恐る受け取った。見た目の通りけっこうな重さがあって、中には……ジュースにパン、プリンやお菓子なんかが山盛りに入っている。やっと鮭を飲み込んだ私は、勇気を振り絞って声を出した。

 「こんなに、なんで、くれるんですか…?」

 「あ?」

 片桐さんが少し大きな声を出したから、私はビクッと少しだけ足を竦ませてしまったけど……彼は、決まり悪そうに自分の口元を指さした。

 「……お前が先に寄越したんだろが」

 「…マスクの、お礼ってことですか?」

 「決まってんだろ」

 片桐さんの口は、今日も私が作ったストライプのマスクで覆われている。

 「私がお願いしたんですから、全然、気にしなくても……」

 「そうもいかねーだろ、……いーからもらっとけ」

 「………ありがとうございます…」

 日野さんが言っていた通り、やっぱり…すごく義理堅い人だ。もらったものは1人じゃとても食べきれそうになくて、この量が片桐さんの気持ちそのものを表しているように思えて私は胸が温かくなった。それに、これを渡すためにわざわざ私を探してくれたことも。貴重なお昼休みだろうに……と思っていたら、やおら片桐さんは階段をさらに登ると、私の1段下にどっかりと腰を下ろした。

 スーツなのに階段に座ったりしてもいいんだろうか…?でも、いつも割とシワシワだし、あんまり気にしていないのかもしれない。最近は暑いせいか流石にジャケットは着ていなくて、上はワイシャツだ。服装自由な社内で唯一毎日スーツを着ているのに、いつもノータイで第一ボタンが空いているのが、なんだか片桐さんらしい。

 「いつもここで喰ってんのか?」

 「っ、はい…?」

 はっと我に返った私のフワフワした返事には構わず、片桐さんは愉快そうな声を出した。

 「あんた…ただのジョシコーセーだと思ってたら、変わった奴だな」

 「何か、おかしかったですか…?」

 「女は群れてメシ喰う生き物だと思ってたわ」

 …わからないでもない。クラスの女子の中には、『1人でお弁当を食べる=孤独の象徴=死んだ方がまし』みたいに考えている子も本当にいるから驚きだ。もちろん誰かと食べるのは楽しいけど、1人で雨の音を聞きながら静かに食べるお弁当も私は嫌いじゃない。今はコロナのせいもあって、『1人で食事』または『黙って食事』が奨励されているのもあるし、そういう意味では私みたいな女子は気楽かもしれない。

 「いえ、ごはんくらい1人で食べても死にませんし…」

 「違ぇねーわ」

 マスクをしている人は顔の大部分が隠れて表情が読み取りにくいけど、心底楽しそうな声音からして、皮肉というわけではないらしい。さすがにそんな小学生レベルの煽りをするような人じゃないことぐらいはもう知っている。

 「それに、入ったばっかのバイトのくせに、社員に直談判するしな」

 「あ、あれは……すみませんでした」

 「別に怒ってねーよ。…あんたがマスクしてるのは周りの奴らのためなんだから、協力しろっつーことだろ」

 「!…はい、もし私が感染していたら、私のしているマスクで皆さんが守られるはずで、みんながそうすれば……」

 「流行が収まるってか?夢物語だろ」

 「……それは無理だって、わかってますけど…」


 「いーだろ別に無理で。ここの社員とか家族とかが守れりゃ、それで」


 今度こそ皮肉だと思ったのに、鋭いものばかりなのに、片桐さんの言葉は……確かに優しかった。そのたった一言で、私は何故かとっさに涙を堪える。なんで今この人にこんなことを言ってしまうんだろう、と頭のどこかで思いながらも、口が勝手に動いた。

 「……うちのおばあちゃん、心臓が悪くて……コロナに罹ったら、重症化するかも、しれないから………」


 「…………わかった。…悪かった」


 思わず右隣を振り向くと、ついに涙が零れて落ちた。片桐さんのボサボサ頭の間から、じっと足下を見つめている目が見えて――それがあまりにも真摯だったから。

 世界中でたくさんの人が亡くなって、日常生活が破壊されて、その流れは私みたいな普通の女子高生にはどうしようもない。それでも元の生活を取り戻すために自粛して、マスクを作って、今自分にできることを探して頑張ってきた。けど、それを嘲笑うような行動を取るクラスメイトがいて、ビアガーデンでビールを飲む大人がテレビに映って、政府は旅行を奨励して、感染者はまた増加する。私のやっていることは全部無駄なのか、じゃあ何が正しいのか、いったいいつ終わるのか、なにひとつわからないまま、実らない努力だけを続けていたのに……

 ――初めて、報われた気がした。

 3月から今日までずっと抱え込んでいた不安とか、苦しさ、虚しさ……やりきれない感情が、ふっと軽くなった気がした。

 「…おい?なんで泣いてんだ、謝っただろ」

 「……すみません……ありがとう、ございます………」

 「あ?………どっちかっつーとな、礼いうのはこっちだ」

 「……?」

 「しばらく誰かに叱られたことなんざなかったからな……施設のババア以来か」

 ウェットティッシュで顔と涙を拭いていた私は、少し細められた目が、優しそうな懐かしそうな憂いを含んだのを見てしまって――すぐに視線を逸らした。それは、いつもの無愛想でぶっきらぼうな片桐さんからは想像もできないような表情で、私なんかが見ていいものかわからなかったから。

 それに今、施設って……『複雑な家庭で育った』といつか伯父さんが言っていたのを思い出す。

 「…ま、気にすんな」

 けれど、そんな私の動揺にも気付かず、片桐さんはさっさともうひとつのレジ袋を開く。中から出てきたおにぎりやサンドイッチ、カフェオレなんかを階段に並べると、そのまま無造作にサンドイッチを掴んで―――

 「あ、これ使ってください…!」

 「ん、……拭けってか」

 反射的に差し出した私のウェットティッシュを一枚引っこ抜くとぞんざいに手を拭き、片桐さんはサンドイッチの袋を破るとマスクを外した。

 「――――えっ?!」

 「ん?……あー、これか」

 片桐さんは顎に手をやった。マスクの中身――髪に負けないくらいモサモサだったはずの髭が、きれいさっぱりなくなっていた。あまりの衝撃に、涙が一瞬で引っ込む。

 「仕方ねーだろ、ヒゲ面でマスクしてっと暑いんだよ」

 「い、いえ、別に悪いことでは……」

 じろじろ見るのは失礼だとわかっていても、男の人は髭でものすごく印象が変わってしまうんだなあと思わずにはいられない。皺のひとつもないシャープな形の顎がくっきりと出てきて、てっきりもっとおじさんだと思っていたのに、でも考えてみれば声は低いだけでおじさんというかんじでもないような……

 「あんたは何喰ってんだ?弁当?」

 「え、はい」

 「自分で作ったのか?」

 「はい、練習中ですけど…」

 「あんた、なんでも自分で作るよな。よくやるわ」

 相変わらず言葉の端々がキツいのに、悪意があるようには感じない。口調や態度の通りの人だとしたら、ずっと年下の女子高生バイトに謝ったり、わざわざお礼を言ったりするはずがない。

 この人は悪い人じゃない。もう、怖くない。

 「……ん?」

 突然、なんのひねりもない電子音が階段に鳴り響く。腰を浮かせて、スラックスのポケットからスマホを取り出して見た片桐さんは、並べたお昼をざかざかと再び袋に戻し始めた。

 「どうしたんですか?」

 「呼ばれた。中央店に直行するって社員に言っとけよ」

 言いながら、くしゃりとマスクをポケットにしまったのを見て、私は慌てて注意する。

 「だめですよしまっちゃ!家に帰るまで付け続けてください」

 「あ?本社でつけてりゃいーだろ」

 こ、この人…わかってそうで、わかってなかったのか……!

 「まずは外からの感染をきちんと予防してください!完璧じゃなくても、効果はあるそうなので」

 「…そりゃそーか」

 「あと……これ、毎日手洗いしてますか?」

 「は?手洗い?これを?冗談だろ」

 「い、今までどうしてたんですか…?!」

 「洗濯機」

 「だめですよ生地が傷むから!えーと、厚生省のサイトに洗い方の動画があって、すごく簡単だから…」

 「国がんなもん出してんのかよ?!…わーったよ、見とく」

 「もう傷んでるかもしれないから、明日追加で持ってきます!」

 「へーへー、んじゃな」

 ひらひらと手を振ると、片桐さんはさっさと階段を降りていった。その背中が見えなくなってから、私は……年上に向かって「だめです」を連発してしまったことを後悔する。

 ついまくし立ててしまったし、間違ったことは言っていないと思うけど、納得はしてくれたみたいだし……とりあえず今日の帰りに、男の人向けの色のガーゼを探しに手芸屋に寄ろう。さすがにもう入荷があると信じて。

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