第19話 ep2 . 「訳有り令嬢と秘密の花園」 穢された聖母

小泉は黙ったまま俺を静かに見つめていた。


なにも否定も肯定もしてくれなかった。


どうして?


なんで何も言ってくれないんだ?


俺は目の前の文庫本をチラリと見た。


これを読んだのか、小泉は。


俺が童貞を捨てている。


しかも相手は花園リセだ。


それは何を意味するのか自分でもよく解っていた。


あの優雅で聖母のような彼女が俺を相手になんかする筈がない。


だとしたら。


考えたくもなかった。


おぞましい、という言葉がこれほど相応しい場面もないだろう。


あの御令嬢を、この手で……


信じられる訳がなかった。


俺の体温が少しずつ下がっていくのが体感できた。


意を決した俺はその古びた文庫本を手に取る。


俺の手は小刻みに震えていた。


動かしてないんだ。


勝手に手が震えて止まらなかった。


薄目でパラパラとめくって飛ばし読みしてみる。


嫌でも目に飛び込んで来る文字列。


俺の意思とは関係なく進行していく内容。


だが。


これ以上はもう見ることが出来ず、俺は座卓の上に本を静かに置いた。


俺は目を伏せた。


少しではあるが見てしまった。


物語終盤。


作中の主人公は確かにしていた。


じゃないんだ。なんだ。


その事実は俺の心を滅多刺しにしてくる。


嘘だろ?


俺がそんな事をやったという証拠でもあるのか?


無いだろ?


嘘に決まってる。


こんな酷い事を花園リセに、よりによって俺が?


手だけではなく膝まで震えてきた。


「センセェ、俺、絶対にこんな事やってねぇんだ」


俺は縋るように小泉に吐き出す。


「俺は誓ってやってない。本当なんだ」


信じてくれよ、と言いかけたが言葉が出ない。


どうして何も言ってくれないんだ小泉?


どうして?


小泉は黙ったまま立ち上がると奥の部屋へ消えた。


よくお供えものが乗っている木製の置物(三宝と言うらしい)を手にして戻って来るなり、座卓の上に置いた。


木の棒の先にヒラヒラした半紙を付けた物(御幣と言うらしい)を手にした小泉は俺の頭上と背中で何やらバサバサと妙な動きをしている。


なんだ?


お経のような言葉を唱えながら(祝詞と言うらしい)俺の身体の上を掃除するように棒を振っている。


頭がキーンとする。


耳鳴りか?


わからない、だが得体の知れない恐ろしい何かが行われていることは理解できた。


頭が割れるように痛くなった。


棒をひとしきり振った後、小泉は座卓の上に置かれたお供え物?を俺の前に差し出した。


小皿に乗った塩、酒、餅が置かれている。


俺は塩を舐めさせられ、酒を少量飲まされた後に餅を食うよう指示された。


砂糖醤油や海苔はないのか、と聞くと正月じゃ無いんだぞと何故か怒られた。


食いずらいがなんとか無理矢理ヤケクソ気味に飲み込み、後で水を貰って飲んだ。


水を飲み終わって一息付いた瞬間、大きな静電気が目の前で起こったような音と痛みが走った。


バチッ、という音がしたように思う。


その音と同時に俺の脳裏に映像がフラッシュバックした。


青い夜。


月明かりの中の花園リセ。


彼女の背中の大きな火傷の跡。


胸を覆う範囲の傷。


マサムネ。


割れたガラスの破片。


薔薇の花。


彼女の唇の動き。


汚れた床。


俺は顔を覆った。


なんだこれは?


花園リセ?


背中の傷?


どうして俺が彼女の背中の傷を知っている?


“見た”のか?


その胸の傷をどうして?


いつ?


月明かり?


ティータイムはとっくに終わっている。


月が昇るような時間に何をしていた?


何をしていた?


その意味を悟った俺は全身の力が抜けていくのを感じた。


他でも無い、俺自身がよく解っていることだった。


それから俺は自分でも何を言ったか喚いたか覚えていない。


ただ、小泉に向かってひたすら喚いていた。


泣いていたかもしれない。


もう何もわからなかった。


俺は懺悔していたのかもしれない。


花園リセ。


心から尊敬していた。


心から大切に思える人だった。


俺はずっと憧れていたんだ。


日曜夜の定番のテレビ番組。登場人物の中には「姉」がいた。


喧嘩したり、仲直りしたり。悪戯する弟の耳を引っ張ったり。出来の悪い妹を叱ったり。


俺はずっと憧れていたんだ。


ああいうお姉ちゃんがずっと欲しかったんだ。


「なあセンセェ、俺は本当に嬉しかったんだ」


俺にこんなお姉ちゃんが居てくれたらなってずっと思ってたから、と言おうとしたが言葉が詰まって出てこなかった。


俺は本当に嬉しかったんだ。


勉強を教えてもらって、手作りのお菓子を食べさせてもらって。


お姉ちゃんが出来たみたいで本当に嬉しかったんだよ。






本当に本当に大切だったんだ。

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