第50話 復帰
僕が家に、ゴルフ場からではなく、都内のホテルから戻ったのは、三時を過ぎていた。
「ただいま」
「どうしたの、淳。帰った時、いなかったから心配したのよ」
「ごめん、つい調子に乗って思いきり練習したら、たっぷり汗かいたので、二階のサウナに入って来た」
「えーっ、なんで。家のシャワー使えばいいのに」
「だって、汗臭いと奈緒と春奈に嫌がられるなと思って」
その言葉にほんの少しの疑問を感じながら
「確かに春奈は嫌がるかも。でも私は大丈夫よ。あなた」
ふふっと笑った顔が、分かっているのよという風に見えた。一瞬冷や汗をかくと
「とにかく着替える」
洋服ダンスから新しい、アンダーウエアとシャツを出すとさっと着替えた。
「そう言えば、実家はどうだった」
「どうだったって」
「うん、ご両親の反応」
「いつもながらよ。家に着いたとたんに春奈を二人で抱きっぱなし。抱き癖つくって言ったんだけど、全く聞く耳無しよ」
「まあ、仕方ないさ。ご両親が喜んでよかったじゃないか」
私は、子供をベビーベッドに寝かすとそのまま、自分も洗面所に行った。
えっ、明らかにオーデコロンの匂い。この匂いは。記憶のある匂いだった。あの時のそう思うと急に不安が心をよぎった。
淳、もう別れたはず。
彼の着ていたシャツを手に取り、鼻に近づけると間違いがなかった。どうして。そう思うと不安の風が心の中を流れた。風の回廊が出来た様に。
私は、シャツに付いたオーデコロンの匂いを聞くことが出来なかった。聞いた後の彼の気持ちや行動に変化が出るのが怖かった。
このまま、私が気づかない振りをしていれば、何も起こらない。今の穏やかな生活を続けることが出来る。もう春奈もいる。淳は私の側に居てくれるそう思うと事を荒立てなくなかった。
「奈緒、行って来るね」
微笑みながら言う彼に
「淳、行ってらっしゃい」
春奈を抱きながら片手で手を振ると、彼がエレベータに乗るまで後姿を見ていた。エレベータに乗る直前、こちらを見て軽く微笑んで手を振った。
ふふっと思うと昨日の事は忘れよう。淳は、私の旦那様。春奈のお父さんそう思うと
「ねっ、春奈」
と腕に抱いた赤子にささやいた。
春奈は、何も言わずじっと見ている。ただ嬉しそうな顔をしていた。
僕は、会社に出るとPCの電源をオンにして、レストルームに行った。手を洗い、うがいをするのが習慣になっている。
レストルームで鏡を見ながら、さて今日も頑張るか。今日は訪問二件あったなと思うとレストルームを出た。
デスクに戻ると、やっと口を聞いてくれるようになった隣に座る仲間が、
「よう、おはよう。爽やかな顔しているな」
「そうですか。先輩の方が、爽やかな雰囲気ですよ」
「そっ、そうか。分かるか」
と言うと急に小声で
「いやあ、昨日久々に合体したからな」
一瞬吹き出しそうになりながら
「先輩、朝から全開ですね」
「今日位はな」
そう言って笑う隣に座る同僚から自分のデスクにあるPCに目を戻した。
何だ、それ言いたかったのかと思うと自分もPCのスクリーンを見た。ブラウザを立ち上げて、メールソフトを立ち上げると、客先や、社内の各部署からメールが入っていた。
あれからもう半年が過ぎ、この仕事にも慣れたが、淳の目が、途中のラインに留まった。
人事通達と書いてある。何か嫌な予感がしたが、無視する訳にもいかず、そのメールをクリックすると
『人事通達。 山之内淳。貴殿を本日付で、システム部課長に任命する』
「えーっ」
流石に声が出た。
どういうことだ。
まったく理由が分からないままに困惑していると、いきなり後ろから声が掛かった。
「知らせる前に人事通達を見たか」
営業三課長が後ろに立っていた。
「俺も驚いた。何の事前連絡も無しに朝一番で俺のところにも届いた」
一呼吸置くと
「山之内、何か心当たりあるか」
「全くありません。やっとこちらの仕事になれたと思ったのですが」
「ああ、お前の出来の良さは俺も認める。実際、我三課の売り上げもお前が来てから月々の数字が右肩上がりだ。営業部長が三課に今年は弾まないといけないなと言っていた」
残念そうに言う課長に
「課長こそ、何か聞いていませんか」
「ああ、後藤に聞いた。あいつは、はじかれるからな」
「えーっ、後藤課長が」
「当たり前だろう。お前がシステム部の課長になれば、あいつは、動くしかないだろう。ちなみに柏木部長もセットだ」
「何ですって」
「言った通りだ。それより人事に行って来い。正式に辞令が通達されるはずだ」
僕は、理解出来ないままに人事に行くと
「山之内さん、本日中にシステム部へ移動してください」
「部長は、どなたに」
「まだ、決まっていません。これが辞令です」
そう言って、渡すと、何故か少しだけ微笑んだ。
人事に来たついでにシステム部に行くことにした。営業三課は二階だが、システム部は人事があるフロアと同じ五階だ。
システム部に行くと、既に部長席と課長席は綺麗になっていた。
どういうことだと思うと自分の姿を見た、元同僚が、
「山之内、いや、山之内課長か。どっちでもいいか。とにかくお前が戻ってくれると助かる。
実言うとシンガポールの件な、お前が出てから二か月後にトラブったのだが、あの二人では、全く対応出来ずだ。
挙句シンガポールから淳がなぜ来れないと上にクレームが付く始末だ。
ところが、俺は良く分からないが、お前が営業三課に行った後、簡単に戻すのはどうかという話が立って、結局人事が考えたのが、課長なら良いだろうという話だ」
「どこでそれを」
「山之内、お互い何年この会社にいるんだ。言わなくても分かるだろう。でもお前のおかげで、俺も課長補佐になった。宜しく頼む。荷物動かすのが大変なら、若いのを使えばいい」
そう言って、今年は入ったばかりの連中を見た。
同僚の言葉に何となく、システム部へ戻る事の事情を理解した淳だが、今一つ理解出来なかった。
シンガポールの件が本当にトラブったら、メールIDが変わっていないから僕のところに直接連絡が入ったはずだ。どういうことだ。
今回の移動が腑に落ちないままに三課のデスクを片づけてシステム部に行った。課長席は、一五名居るシステム部全体が見渡せる場所にある。
取りあえず、荷物を適当に置くと急いでPCを立ち上げた。色々入っているはずだ。そう思って、すぐにメールソフトも立ち上げるとシステム部課長としての権限がある故のメールが凄いスピードでカウントされた。
それが、一通り表示されると最優先メール扱いで発信者が竹宮瞳と書かれたメールラインが有った。
無視をしたい気持ちもあったが、日曜の事を思い出すと無視する訳にもいかず、クリックすると
『淳、会いたい。今日ランチいつものところで』それだけが書いてあった。
こんなこと書いたらIPOの連中がと思いながら断る気にもなれず
『いいよ』とだけ書いて、送信ボタンを押した。
もう一年以上前になる。まだあのお店あるのかなと思いながら、新橋方面に足を進めた。景色は何も変わらないのに、この道を歩くのが懐かしく思える。気の性と分かっていながらつい周りを見ながら歩いていると
「何をキョロキョロ見ながら歩いているの」
いきなり後ろから声を掛けられた。
「瞳」
「ふふっ、淳。久しぶりね。こうして歩くの」
微笑みながら声を掛ける瞳に、つい微笑むと
「ああ、そうだね」
と返した。
瞳は、何も言わずただ微笑みながら一緒に歩いた。やがて前に一緒にランチを取ったお店に来ると
「淳、話がある。別のところで食べよ」
「えっ。でも昼食時間が」
「問題ない」
と言って通りを流すタクシーを止めると
「淳、乗ろう。美味しいランチ食べよ」
そう言って微笑みながら淳の体をタクシーの中に押した。
「運転手さん、新橋二丁目まで。近くてごめんなさい」
「いえ」
綺麗な女性に声を掛けられた運転手は、まんざらでもない顔して言うとタクシーをスタートさせた。
―――――
うーん。竹内家指図とも思えないし。どうしたんでしょう。
次回をお楽しみに
面白そうとか、次も読みたいなと思いましたら、ぜひご評価頂けると投稿意欲が沸きます。
感想や、誤字脱字のご指摘待っています。
宜しくお願いします。
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