第48話 新しい命


 既に、彼が出社しなくなってから十日が過ぎようとしていた。人事の対応と母親の言葉に悩みながらももんもんとする心の中ではっきりしなければいけない。


 あの女性の事がどうだろうとそう思うと彼と会った火曜日から一週間後の月曜日、心を決して病院に行くことにした。


 会社の帰り、銀座線で渋谷まで出ると、田園都市線に乗り換えて次の駅池尻大橋で降りた。そして地上に出ると坂道を登った。


 病院の建物が近付くほどに瞳は、目の前に迫る真実を受け入れる事に心が重くなって来る。

 最悪の状況を考えようそう思っても心はどこかで淳は自分を選んでくれる。自分を待っていてくれると思いたかった。


 病院に入り総合受付で見舞いを表に出して彼の病棟を聞いた。更にナースセンターで病室の位置を聞くと心の準備をしながらゆっくりと廊下を歩いた。


 やがて教えられた病室の前に立つと彼がベッドで横になっていた。そしてその側に、母親から見せられた写真よりも可愛く美しい女性が座っていた。


 二人で、笑顔で何かを話している。その時だった。彼の視線が自分の方に来た。目が合った。


「瞳」


 その言葉に側にいた女性が振り向いた。しっかりと自分を見ている。少しの時間が経つと、何故か体が病室の中に入って行った。


そして彼の側に行くと

「山之内さん。この方は」


ベッドの側に座る女性を見て言う言葉にその女性が立つと軽くお辞儀をした後、


「初めまして。山之内淳の妻、奈緒子です。あなたは」


強い程に見せる視線と妻と言う言葉に驚きながら


「初めまして。山之内さんと同じ会社に勤める竹宮瞳と言います。本日はお見舞いを兼ねて、はっきりと山之内さんの心を確認しに来ました。

でも、もうその必要は無い様です」


言葉を区切り、淳を恐ろしい程の視線でにらむと

「淳、信じていいのねと聞いたわよね。あの時」


じっと自分を見つめる許しがたい視線が有った。


「あなたを信じた私が、人を見る目が無かったのですね」


きついまでに冷静に言い放つと体を回して病室を出て行った。


 僕は、二人のやり取り、そして瞳から出た自分への言葉に、ただ何も言えなかった。

 奈緒は、瞳の後姿が病室を出るまでしっかりと見取ると


「美しい方ですね」


 そう言いながら自分を見る目が、今まで見たことのない恐ろしく冷静で冷たい感じがした。

 まるであなたがはっきりしないから、あの方がつらい思いをしたのですと言う様に。


 病室を出た後、堪えていた心のタガが外れた。止めどもない涙が目から溢れ出た。言葉は何もなかった。

 そして、エレベータのそばまで来ると、今まで我慢していた感情が一気に溢れ出た。


「淳のばかぁー」


 ただただ、止めどもなく大粒の涙が溢れ、エレベータホールの側にある椅子に崩れ落ちた。


 それから更に一週間が過ぎた。


「淳無理してはだめよ。ゆっくりと歩いて」

「大丈夫だよ」


そうは言いながら。右脇腹に負担を掛けないように歩きながら言う彼に


「ふふふっ、その歩き方では、まだ私の看病が必要ね」


 二週間、付きりで看病しながらその疲れも見せずに、何故か嬉しそうに言う奈緒に


「もう、分かった」

そう言って、目元がほころんだ。


 僕は、退院した後、更に自宅で一週間の養生をして会社に出社した。

同僚は、何も変わらなかったが、柏木部長と後藤課長が、信じられない程に冷たい対応をした。


 何か上から聞いているのだろう。仕方ないと思った。あのまま素直に瞳と自分が、時に身を任せたら自分達も来る姿が見えていたのかも知れないと思ったからだ。


 そして、出社して一か月後、それまでIT部門だった淳は、営業三課に移動させられた。


 営業三課は、本流の仕事ではない部署だ。一課、二課のこぼれをするような部署だ。

 僕は、瞳の素性を考えると、転勤や出向がないだけいいかと思った。もちろん、もう瞳と仕事をする機会など無かった。


 最初は三課の人間も、まるで腫物でも見る様な目で見られ辛い思いをしたが、淳の素直に仕事に打ち込む姿に一か月もしない内に馴染んでくれた。そしてそれから半年が経った。


分娩室に可愛い泣き声が聞こえた。そして数分後、


「山之内さん、可愛い女の子の赤ちゃんです。お母様に似て美人ですよ」


 看護婦の言葉に分娩室の側に行くと、まだ目が開いていない赤子が奈緒子の腕に抱かれていた。


「奈緒、頑張ったね」

「うん。可愛いでしょう。あなたそっくりよ」

「うん、奈緒にもそっくりだ」


この上なく嬉しそうに赤子を抱く奈緒を見てたまらない気持ちになった。


 赤ちゃんが生まれたのは、八月も終わりの時だった。夏の日差しが強い中、奈緒子と季節を自分の名前を合わせて考えたが、何も思い浮かばない。


 父からは退院するまでには、名前を考えた方が良いと言われながら何も思いつかなかった。ただ奈緒子のどれか一字は付けたかった。


 いきなり頭に浮かんだのは秋奈だった。でも秋奈ではと思うと、いいや春奈と結構短絡的につけながら、妻には一生懸命説明した。


そして、既に首も座る一二月の声も聞く季節だった。


「淳、今度の土曜日、春奈を連れて家に行ってくる。おじいちゃんとおばあちゃんが、毎週見ないと我慢できないとか言っている。淳も一緒に来る」


「いや、遠慮しておく。たまに行くのはいいけど気を遣う。春奈と一緒に行ってくるといいよ。僕は家にいる」

「わかったわ」


 奈緒は、小さな体から大きく胸を出して春奈に乳を上げている。その光景を見ていると僕は、自然と目元がゆるんだ。


 赤ちゃんを産んだ後も、可愛さと美しさは変わっていなかった。むしろ、子供を産んだことで顔がはっきりして、一段と綺麗になったといっていい。マンションの中でも噂になっている。


 この前、二子玉のデパートに行った時など、ベビー用品売り場の店員全員が、バギーに乗る春奈と奈緒に寄って来たほどだった。


 仕事も営業三課に移って以来、ITの仕事は全くなく、ルートセールス専門になった。ただ、前と違い、残業が少なく毎日七時前に帰る。突発的な事も発生しない為、奈緒にとっては、精神的に良いようだ。


「じゃあ、行ってくるね」


 いま、流行のPHVの小型自動車。奈緒のお腹が大きくなり始めた頃に購入した。後部座席にベビーシートが載せてある。春奈をしっかりとホールドすると自分が、運転席に座って、僕に言った。


 結婚した頃は、奈緒が車を運転するなんてとても想像できなかった。妊娠が分かり、籍を入れた後、奈緒は会社を退職した。上司と同僚からは、相当に引き留めに有ったらしいと話には聞いている。 


 つわりが終わり、安定期に入った頃、家にいても仕方ないという事で近くのドライビングスクールで免許を取得した。


 はじめは、時間がかかるだろうと思っていた僕は、規定時間に少し上乗せしただけの時間で取得できたことに驚いたが、ドライビングスクールの先生たちは、もっと驚いていた。


 どうも天性の才が有ったようだ。初めてドライブに行った時の顔が想像できない。


 奈緒が運転する自動車は、走り始めてもほとんど音が聞こえない。

静かに走り去る車の後姿が見えなくなるとマンションのエントランスに入った。車なら五分とかからない。


 安心だと思うとエントランスからそのままエレベータに乗った。五階建てのマンションの三階、南西角部屋に住んでいる。ぎりぎり富士山が見える高さだ。


 今日は、いい天気だし、ゴルフの練習でも行くか。奈緒にはメールを入れておけばいいそう考えると壁掛けの時計を見た。


 奈緒が実家に向かってから一五分は経っている。テーブルの上に置いてあるスマホを手に取ると


『奈緒、今から世田谷総合運動場のゴルフ練習場に行ってくる。一時位には戻るから』

送信をタップした。すぐに奈緒から返信が有った。


『わかった。私たちも三時には帰る』

最後にハートマークがついていた。


僕は微笑むとハーフセット用のゴルフバッグにクラブを入れて世田谷通りまで出てバスに乗った。


 奈緒と一緒になってもう一年近くになるな。早いな。転職も考えないといけないな。あの会社では、もう将来はない。


 かつて、関係の有った竹宮瞳の父がオーナーを務め、瞳自身もまだ、あの会社にいる。会うことはなかったが。



―――――

転職ですか。…。


次回をお楽しみに


面白そうとか、次も読みたいなと思いましたら、ぜひご評価頂けると投稿意欲が沸きます。

感想や、誤字脱字のご指摘待っています。

宜しくお願いします。

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