2.我々に自由意思はない、という仮説
簡単な実験を皆さんと一緒にやってみたい。今、右手を皆さんの好きなタイミングで上げてみてほしい。今すぐにでもいいし、しばらく待ってからでも構わない。とにかく好きなタイミングで、右手を挙げてみてほしいのです……挙げましたか?
はい、そこまで。
さて、今皆さんが手を挙げたのは、自分の意志に従って挙げたと考えてよいのだろうか? もちろん、皆さんが手を挙げたのは私がそう指示したからだけれども、指示に従わなくても良い中でわざわざ指示に従ったのだから、とりあえずその点に関しては自分の意志があったと考えてもよいだろう。少なくとも皆さん方の多くは、そう思っている。
果たして、それって本当だろうか? というのが今回の話である。
自分の行動を自分の意志で決定する、このことを恐らく私たちは「我々は行動に対して自由意志がある」と言っている。しかし、である。私たちは本当に、「自由意志」を持ちうるのだろうか。
一つおかしなことがある。今皆さんは、右手を挙げるという意志を持ったという。しかし、私たちが本当に自由であるならば、『右手を挙げるという意志』を『持とうとする意志』が先に無ければおかしい。なぜって、『右手を挙げるという意志』が本人の自由意志ではなく、何らかの力で強制的に誘発されたものであるならば、結局その意志はその点において『自由ではない』からである。
つまり、私たちが自由意志によって右手を挙げようと思うならば、まず右手を挙げようという意志『を持とうとする意志』が先に存在していなければならない。そしてその意志が自由であるためには、さらにそれを持とうとする意志が存在していなければならないことになる。それが自由であるために、さらにその意志を持とう、と言う意志を持とう……と無限に続いていく。意志を持つために意志を持つ必要があるのである。つまり、意志を持つという主体は無限に後退し、いつまでたっても完全に自由な意思を見つけることは出来ないのだ。
そんなのただの言葉遊びだ、詭弁だ、と思うならばそれでもよろしい。これは哲学である。最終的には、皆さんが自分で考えて答えを決めるのだ……とまぁ結局はそういうある種無責任な結論になってしまうのだけども、せっかくなのでここでは私の意見を書いておこう。
私がずっと、『自由意志』について疑念に思っていることがある。それは、『私たちの脳の機能が物理的世界に制約され、その脳が制約された物理的世界からの刺激に対してしか反応できない以上、全ての人間の意志はその物理事象の辻褄合わせ(amazarashiの歌にそんなのもあった)としてしか存在できず、人間が本当の意味で自由にできることは何一つ無いのではないか』ということだ。
勿論、哲学を始めとした各種外部装置を使うことによって、思考の癖を見直してみることは出来る。しかし、私たちの時間が有限で外部世界も有限である以上それにも限界があるし、そもそも思考の癖を見直そうという試みも既に癖を持っている脳によってなされる。私たちは自分の脳の形が許す範囲でしか物を考えることが出来ない、言わば『脳の奴隷』なのだ。
こういうことを言うと運命論者みたいだが、私は私たちの人生が『あらかじめ決められた運命の下にある』とまで言うつもりはない。なぜって、それはとっくに科学的に否定されているからだ。私たちの世界は巨視的には同じ行動をすれば同じ結果が返ってくるように見えるけれども、量子力学には不確定性原理というのがあって、これのせいでミクロの世界では同じことをやっても異なる結果をもたらしたりする。これがあるから、前提条件からあらゆる未来を予測できる『ラプラスの悪魔』は存在できない。世界が作られた時点で、世界の運命が全てあらかじめ決まっている、ということはないのである。
しかしそのことは、私たちの『自由意志』の存在可能性にとって、何の救いにもならない。なぜって、結局現象を根源まで辿ったところにあるのは、人間が一切操ることのできない完全にランダムな世界であって、そこに私たちの意志が介在する余地は無いからだ。私たちの『意志』というソフトウェアは、どこまで行っても『世界』やら『脳』やら『分子運動』やらというハードウェアによる制約を受けてしまって、それらが許す範囲でしか存在できない。
実はこの思想は、そこまで真新しい物ではない。歴史書を紐解けば、似たような思想は宗教改革期(実に500年前!)のマルティン・ルターやカルヴァンの教えに見ることが出来る。彼らによれば、各々が救われるかどうかはあらかじめ決められており、個人の努力でどうこうできることでは無いというのだ。
こう書くと、これはとんでもない危険思想にも思える。死後の救いがあらかじめ決められたものであるならば、現世でどれだけ悪いことをしようが天国に行く人もいれば、現世でどれだけ良いことをしようが地獄に行く人もいることになる。ここに一切の社会道徳は存在しない。
では、これは危険思想なのだろうか? いや、ここからが彼らは凄かった。彼らは「あらかじめ救われると決められている人々は、道徳的に現世でも素晴らしいふるまいをするはずだ」と説いたのである。つまり、私たちは確かに現世の振る舞いによって新たに救いを得ることは出来ないけども、現世で道徳的な振る舞いをするような人は、あらかじめ救われるように決められた人に違いない、と説いたのだ。ここに偉大なパラダイム・シフトがある。つまり、過去が未来を決定するならば、そうやって発生した未来事象から過去がどうであったかを確認することが出来ると考えたのだ。
今のが分かりづらかった人は、一つ、自分の夢について考えてみるといい。将来の夢の話ではない、グーグーと寝ている時に見る、あの夢である。これは有名な話なのだが、私たちの睡眠の深度には周期性があり、そのうちの『レム睡眠』と呼ばれる浅い睡眠が来るたびに、私たちは何度も夢を見ているのだ。しかし実際には、夢を見た記憶を保持していることは少ない。これは、レム睡眠からノンレム睡眠に移行する際に、夢の記憶を完全に失ってしまうからである。
つまり……だ。私たちが夢を見ていることを自覚している時、その時点で私たちは、『その夢の途中に目覚めることが確定している』のだ。もし夢が終わった後も眠り続けていたならば、起きた時にその夢を覚えていることは無い。だから私たちに夢を見ていることを自覚することがあったならば、その時点で私たちは『その夢の途中で起きること』が確定しているのだ。『夢の途中で起きる』という未来が確定して初めて、私たちは『夢を見ている』という、起床に至るまでの過去を自覚する。
確かに時間は不可逆で、過去が未来を決める。これは私たちの実体験から明らかであり、おそらく揺るがない真実である。しかし……だ。私たちは未来がどう振舞うかを見ることによって、過去の事象がどうであったか、というのを確定させることができるのだ。私たちが良いことをしようが、悪いことをしようが、それらはきっと全て過去の辻褄合わせで、運命を変えようと試みるところまで全てが織り込まれていて、織り込まれていたことになって行くのだ。
まあなんにせよ、こうして『自由意志』の存在可能性が揺らぐと、もう一つ面白い話ができるようになる。それは『自分らしく生きる、自由に生きる』とのたまう前に、『まず自分らしく生きるとはどういうことなのか』、そもそも『自分らしく生きることは可能なのか』という議論が出来るのではないか、ということだ。
私たちが真に自由であるにはどうすればよいのか、このような様々な制約を振り切り、また自分自身の『自由でありたい』という欲求すらも振り切り、完全な自由を手に入れるにはどうすればよいか。
思索の種は今日も絶えない……ちょっと今回真面目な電波飛ばし過ぎたな、次はもっとふざけるからね?
反論求む、議論歓迎。
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