3.私の妖精さん

 前回は詳しくもないジャンルに首を突っ込んで苦労する羽目になったので、今回はもう少し可愛くて頭を使わない話をしよう。


 皆さんは、妖精というとどういうイメージだろうか? オーソドックスな、羽の生えた美しい姿? それともいたずらなゴブリン? あるいは、人間の仕事を代わりにやってくれる小人さんかもしれない。


 今回私が語りたい妖精さんは、最後の例。働きものな小人の妖精さんである。


 彼らは床下やコンクリートの割れ目にひっそりと隠れ住み、虫を食べて暮らしている。めったに人前に姿を現すことはなく、仮に現れてもあっという間に逃げ去ってしまう。しかしこの性質を惜しむものは少ない。なぜなら、この妖精さんを見た人間の方でも、すっかり怯えて逃げ去ってしまうからである。妖精さんの方でも自分が嫌われていることは百も承知しているから、人前に姿を現さず、ひっそりと害虫を駆除して暮らしているのである。


 どうです、可愛いでしょう? いじらしいでしょう? そんな妖精さんがいたら、ぜひ会ってみたいと思いませんか?


 何を隠そう、この妖精さん、私たちの世界に実在しているのです。ちゃんと図鑑にも載ってます。とても有名な生物です。


 その生物の名前は……





 『ゲジゲジ』


 ……あぁ、待って、ブラウザバックしないで。ちゃんと言い訳は用意してあるのよ。

 

 『ゲジゲジ』と言われてピンとこなかった人は、適当に画像検索してみよう。そこに現れるのは多脚戦車タチコマ(攻殻機動隊)のような、とても愛らしい姿である。


 え、可愛くない? そんな馬鹿な。あのねぇ、あなた。そうやって見た目で相手を決めるような恋愛はとっとと卒業なさい。人間、大事なのは中身なのよ? そう、中身。あぁ、あの健康的な内臓のなんて美しいこと……って話ではなくてね? 性格とか、振る舞いとか、そういうのの美しさを見るのよ。じゃないと悪い奴に騙されるわよ?


 さて、この『ゲジゲジ』という生物。多くの人がギョッとする(らしい)見た目に反し、人類にとって素晴らしい益虫である。彼らは様々な害虫をそのたくさんの足を使って執拗に追い回し、一度捕まえたら最後、『跡形もなく』食べつくすのである。彼らが好んで食べる虫の中には、不快害虫の王様『ゴキブリ』も含まれている。ゲジゲジはただ生きているだけで、人間が住みやすい環境を作るためにせっせと働いてくれるのだ。


 そして何より、『可愛い』。このゲジゲジという生物、眺めれば眺めるほどかわいいのだ。彼らは非常に憶病で、人間のような大きな生物が少し近くで動けば、素早く物陰に隠れてしまう。その様のいじらしさも素晴らしいのだが、何より素晴らしいのは彼らの特性である『化粧行動』。彼らは時間がある限り、触覚や足をきれいに掃除する癖があるのだ。ムカデのような見た目に反し毒性は一切なく、それでいて非常に綺麗好きなのだ。


 えっ、それでも生理的に無理? そっかぁ、それならしょうがないけど……。




 実を言うと、私は『生理的に無理』という感覚に慣れてしまっているのだ。というのも、私が何よりもまず生理的に無理なのが『人間』だからである。


 なぜ苦手なのかと聞かれてもどうしようもない。これはもう、本当に『生理的に』無理なのだ。本能からの根源的な恐怖であって、ほとんど説明のしようもない。


 しかし、人間はポリス的動物である。人とかかわらずに生きることなどできやしない。だから私は、人間とあえて積極的に仲良くすることによって、その不快感を軽減する方向に行動力が働いた。私は世間では社交的な人間として通っているが、それは私の実態ではない。私はただ、目の前で知らない人間が生きていることが耐えられないのだ。だからせめて、知り合いにして気を落ち着けようとする。言ってみれば、『特攻型の人見知り』なのだ。


 私が生理的に無理なのは人間に限らない。犬も猫も、生理的に無理なのだ。彼らのその醜悪な造形といったら、どうしても正視に耐えない。


 しかし、そんなこと言っても仕方ない。現実に、私はたくさんの人間に支えられているのだし、犬や猫は私たちの生活にかなり密接にかかわっている。そうして生理的に無理な物に囲まれ続けた結果、私はそれに『適応した』。つまり、生理的に無理、という感覚があっても、それを跳ね除けない性質が身についたのである。これは私がこの世界で生き残るために、必要な性質であった。


 こうなってみれば儲けもの、私はようやく、世界の美しさに気づき始めた。それは見た目が美しいという表面的なものではない。(そもそも見た目が美しいと感じるのは今のところデフォルメされた絵画とか二次元美少女だけで、それ以外の物はほとんど全てグロテスクに見える) 私は、機能の持つ根源的美しさ、いわゆる『徳』とか、『機能美』という物に惹かれるようになったのである。見た目の美醜の感覚という物は、私の偏屈な脳が勝手に決めるもので、私の脳の構造が少しずれれば反転するような、おおよそ当てにならない代物である。(ここらへんは、『沙耶の唄』というエロゲが上手く表現してくれていた) しかし、状態の善悪を判定するものが狂っても、物の機能自体に支障はない。私はこの、美醜という『私の脳が勝手に作った善悪の基準』から離れたところから意識して評価を下すようになった。


 現代アート、という文化がある。昔は芸術の根源は美しさだと思われていた。芸術は確かに様々な物を表現する場であるけれども、それよりもまず『見ている人に好感を持たせること』が必要だと考えられていた。だから自然と芸術は美しさを追求して進化したのだけれども、これに反旗を翻して登場したのが『現代アート』である。一部の芸術家は、芸術は何かを表現しようとした時点で貴いのであって、美しさは必ずしも必要ではないと考えた。彼らは人間の脳が勝手に定める『美醜』という感覚から解放された、より自由な自分らしい表現を突き詰め始めたのだ。


 前話とここまでの話を読んでくださった人は何となく察しがついていると思うが、私は私自身の『脳みそ』が大っ嫌いである。私の了承を得ず、快不快を勝手に決め、勝手に物を好きになったり、勝手に嫌いになったりする、これが酷く耐えがたい。だから私は私自身の脳から自由になるための方法を探し続けている。『ゲジゲジ』のような一見珍妙な見た目の生物の徳を見極め、好きであろうと意識することは、その試みの一つなのである。


 さて、この『ゲジゲジ』という生物。機能美に溢れた、なんとも『徳の高い』生物である。生理的に無理というのも分かりますが、だからこそあえて好きになってみませんか?

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