女
金田家を訪問した帰り道、大きな橋の上に差し掛かると、生温い風が女の頬を撫でていった。ベタつくようなその風は、あの主婦の住む住宅街によく合うように感じた。
「お邪魔しまーす。まさとくんいる?」
「あら茉莉花、まさとならそこにいるわよ」
姉の家を訪ねると、小学生の甥まさとはもう帰宅していた。
「茉莉花ちゃん、こんにちは」
「まさとくんこんにちは。こないだ話してたゲーム、一緒にしようと思って持ってきたよ」
5年生のまさととは20歳以上離れているが、まるで姉弟のように仲が良かった。大人しく引っ込み思案な彼はクラスであまり友達が出来ないらしく、家に連れてきて遊んでいるところを見たことがない。しかし小さい頃から彼を知っている茉莉花は、不器用だがとても優しいまさとのことが大好きだった。姉の家はわたしの住む実家から少し離れているが、よく遊びに来ていた。まさととゲームをして遊んだり話をしたりすることが楽しかったし、もし友達がいないことを寂しく感じていても自分の存在がまさとの支えになっているならそれで充分だと思った。
最近、まさとのノートや鉛筆がなくなっているみたいなの。姉からそう聞かされた時、ついに来たかと思った。ひとりでいる子は、集団の中で目をつけられるものだ。強いのだと誇示するために行われるそれらは、個人では何もできない弱い人間が行う下劣な行為だ。大人になるにつれてそれがどれほど弱くてカッコ悪い人間であると周囲に晒す行為か理解でるようになっていくが、小学生にはまだわからないのだ。
まさとに訊ねても、無くした、クラスの子に貸したと答えるばかりだという。
姉からその話を聞いた今日も、先程までいつもとかわりなくゲームをしながら笑っていた。
いつもどうりなのだ、まさとは。少しは落ち込んだりしそうなものだが、姉に言われた今でも辛いことが学校である様子には見えなかった。
まさとの落ち着きようは、時々大人びているように見えることもある。精神面はずっと強いのかもしれない。ならばわたしが憤ってなにか行動を起こすより、せめていつも通りまさとと楽しく遊ぶことが、いちばん良いことなのかもしれない。
まさとを虐めている相手を許せないが、怒りを抑えなければと思った。まさとが平然としているのだから。
まさとが病院に運ばれたと聞いて、最初はクラスメイトに怪我を負わされたのだと思った。自ら歩道橋から飛び降りたと姉から知らされた時、頭が真っ白になり周りから音が消えた。さいわい落ちたのが足からだったこと、車が途切れていたタイミングで轢かれなかったことから一命は取り止めた。しかし衝撃で1週間意識が戻らなかった。
ランドセルからは飛び降りる前に書かれた遺書のようなものが見つかった。そこには、学校で隼人くんたちにものを壊されたり罵声をあびせられたりしたこと。隼人くんに「お前みたいなやつが子供でお前のお母さんがかわいそうだ」と言われて、確かにその通りだと思ったこと。勉強も運動も得意ではなくて、クラスメイトにもいじめられて、でもどうすることも出来ない自分はこの先生きていても親に迷惑をかけるだけだと思ったこと。だから死ぬことにした、こと。
1週間後、目を覚ましたまさとは声が出せなくなっていた。声帯に問題はなく、おそらく飛び降りたショックやこれまでのストレスが原因だろうと医師は話した。
わたしはまさとをいじめ、声を奪った奴らが許せなかった。まさとの書いた文章をもとに学校側に訴えるべきだと姉に詰め寄った。しかし姉は、まさとが自殺を図った事実を広めるべきではないと言った。今後のまさとの人生にその噂は常につきまとうことになるだろうと。
姉の考えは確かに正しいと思う。どんな経緯かは関係なく、ただ自殺を決意したことがあると知られるだけで、周囲のその人への目線は変わる。
しかし私は、まさとをこんな目に合わせた人間が何事もなく生活していることが許せなかった。まさとのメモをてがかりに、いじめの主犯は金田隼人という高級住宅街にすむ裕福な家庭の子供だとわかった。
いじめの加害者は、幼少期の親子の愛着形成に問題があることが多い。正しく子育てをしなかった親が、まさとをいじめた子供を作ったのだ。子供だけじゃない、親子共々追い詰める方法はないものか、わたしは金田家について調べ始めた。
夜に金田家の庭に忍び込み、木陰に潜んで家の様子をうかがった。すると、男の怒ったような声や鈍い音、女性のうめき声が聞こえてきた。ただしどれも押し殺したような、まるで周りに決して聞かれることがないよう、配慮された暴力のようだった。
それから何度も庭に潜み観察を続けたが、週に2回ほどの暴行が継続して行われているようだった。
これを使わない手はないと思った。しかし利用するには、自分の推測が正しいか確認しておきたかった。
簡単な変装をし、いつもと違う夕方の時間帯に住宅街を訪れた。ご近所同士でおしゃべりをしている様子の女性たちを見つけ、今新居を建てる場所を検討中の新婚のふりをして、この住宅街について教えて欲しいと言い会話に参加した。話好きの女性たちは、住みやすい点や住宅街のルールについてあれこれと教えてくれた。あそこの家の旦那はどこどこで働いている、あの家の奥さんは朝から晩までパートをしている、どこそこの奥さんはいつも遅い時間にスーパーにいって、割引の荷札が貼られるのをまっているなど、わたしそっちのけのご近所さん情報でも盛り上がった。知りたかったことが知れたのでそろそろ引き上げようとしたとき、金田家の話題になった。
「旦那さんは〇〇メーカーで役職持ちらしいわよ」
「でもそういう家庭だとあれよね、子育てにいいってわけでもないのかもしれないわね」
「そうそう。そこのお子さんがね、クラスメイトをいじめてたって噂があってね」
「今しばらく学校を休んでる子がいるらしいんだけど、隼人くんにいじめられたことが原因らしいの」
「旦那さんも奥さんも謙虚でいい人なのにね〜」
あの高級住宅街ではヒエラルキーが形成されていて、あそこで生活していく上でとても重要な要素になっているのだろう。ヒエラルキーの上にいるであろう金田家が、決して知られたくないことー。あの家族を追い詰めるための要素を、わたしは知っている。
訪問は夕方の、買い物をする主婦たちが外に出る時間帯に行うことにした。通りに面した門のインターホンに向かって、通りにも聞こえるように自己紹介を毎回する。そこで追い返しては近所の人の噂になることを懸念してだろう、いったん玄関前まで通される。庭を抜けて戸口までくると、最近は扉も開けず、大丈夫ですから、気にして頂いてありがとうございます、どうぞお引き取りください、と明らかに早く出て行って欲しいことが伝わるような早口で話す。半ば追い返され通りにもでても、こちらを訝しげにみている主婦と目が合えばすぐに金田家の様子について尋ねるふりをしながら、DVの疑惑があると言いふらした。訪問を開始して数週間すると、いつもの近所の人から金田さんが最近人目を避けているようだと聞いた。おそらく話好きの女性たちのことだ、DVのことが広まり、それに気づいたの金田が人前に出づらさを感じているのだろう。心配そうに、だがとこか楽しそうに金田家の近況を話すご近所さんの様子からも確信した。確実にあの女を追い詰めている。
だがもっとだ。今度は支援団体のビラを作って旦那さんが帰ってくるタイミングで仕掛けておくつもりだ。それに逆上して、息子にま手をあげてくれれば願ったり叶ったりだ。
悪い人間に必ずしも正しい罰が降るとは限らない。むしろそういう人間ほど他人を蹴散らしてもなんとも思わず、そうやって地位を上げていく。優越感を得ていく。
だったら罰を降す役にわたしがなってやる。
もっともっと、苦しめてやる。
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