金田の奥さん

今日もまたあの女が訪ねてきた。いい加減怒鳴って追い出して、二度と訪ねてこないようにしてやろうかしら。でももしご近所にそんなところを見られでもしたら、自分はここに住んでいられないわ。

頬の腫れに氷を包んだタオルを当てがいながら、鏡を睨みつけていた。

朋子は閑静な住宅街の一際大きな家で暮らしていた。大手スポーツメーカーで若くして役職を得た優秀な旦那と、父譲りの賢さを受け継いだ息子と3人暮らし。ご近所さん達からは羨ましがられ、優越感で満ち溢れたこの暮らしにとても満足していた。


それをあの支援団体の女が脅かしているのだ。

「金田さんがご主人から家庭内暴力を受けているとの連絡がありまして。お話を伺いに参りました」

ある日の昼間、突然訪ねてきた女はそういった。わたしは冷水でも浴びせられたような気分と同時に、女の観察対象を見るような視線にどうしようもない憤りを覚えた。

わたしをそんな目で見ることは許さない。旦那と結婚し、この家に住み始めてからは誰からも羨ましがられて、そんな目線とは縁のない生活を送っていた。


旦那さんが〇〇メーカーの部長さんなんて羨ましいわ。

隼人くんかっこいいわよね、きっと将来は美青年よー。

そんなことないですよー。家じゃ普通の旦那よ。家も大きなものを買ったけど掃除が大変だし、ローンだってありますし。


内心では、普通と言ってもあなた達の旦那とは比べ物にならないわ、ローンだって普通の家と比べたらとても短い期間で返し終わる程度だわ。しかし謙遜は円滑な人間関係に大切なことだ。

おかげてご近所さんとは仲良く過ごせているが、藤本さんは少し苦手でふたりきりで話したことはない。話を聞いているときの引きつったような笑顔が、わたしの大きな優越感を見透かし恐れているように感じる。


早く前の生活に戻りたい。ただでさえ隼人のことで最近ご近所さん達と話しづらくなっていたのに。夫からの暴力に声を上げずに耐えているのも、近所に知られないようにするために必死なのだ。それだけは絶対に避けたかった。

顔に手を出すのはやめてほしい。この間原田さんにアザのことを訊かれてしまった。家を訪ねている女が支援団体と知られてしまったら、もう近所からは羨ましい金田の奥さんとして見てもらえない。朋子にとっては旦那からの暴力よりも耐え難い屈辱だった。

以前のように顔にはせず身体だけにしてくれたらいいのに。隼人のことがあってから見境がなくなってきたように思う。

元はと言えばあのクラスメイトのせいだ。いじめなんてどこの学校でもあることなのに不登校になるなんて、きっと精神が弱い親に育てられたのだろう。


苛立ちが治らない朋子は、溶けて柔らかくなった保冷剤を壁に投げつけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る