4.変数少女Xは自由に名乗れない

 名前って不思議な存在だから、それを本当に意識するのって難しい。私がそのことに気付いたとき、私にはもう名前が無かった。

 私の名前をこの病院にいる誰も知らない。もちろん私自身も。ただ本当の空虚さは、名前が無いことじゃなくて、名前を呼ばれないことだ。あの先生もあの看護師も私の名前なんて知らないし、リンとかいうとりあえずの名前もXとかYとか、そんな記号と大差無い。だから、そんな空虚な繋がりに縛られる前に、ここから逃げ出してやることにした。


 屋上に出る扉を開けるのは大して難しくは無かった。ここが長い間鎖されているのは、見た目以外でも感じる。そのうち看護師が私を探し始めるけど、それはまだ先のはず。思いたったが吉日、ていうらしいし。屋上の縁に立って下を覗き込んだとき、案の定恐怖すら無かった。恐怖も痛みももちろん記憶から来てる訳出だし、その点、私は赤ん坊みたいなもので、あるとすればこの世界への恐怖くらい。後はなるべく迷惑にならないタイミングで落るだけ。

 そして、なんとなく目を閉じて、重力に従ってゆっくりと前に倒れこんだ。


 それは思ったよりも長い時間だった。それどころか、段々と言い知れない恐怖心すら覚え始めてしまった。我慢出来ずに目を開けたとき、変わらない景色に思わず息を呑んでしまった。気付けば後ろ襟を掴まれて、まるで猫みたいな格好で、ぶら下がっていた。ただ、不思議と苦しさが無く、まるで重力を感じ無かった。

「ごめんね」

その言葉と同時に、身体が浮き上がり彼女の方に引き寄せられる。

「別に邪魔するつもりは無かったんだけど」

何でか知らないけど、彼女はバツの悪そうな顔をしていた。私は、唐突に訪れた浮遊感に思わず、彼女に抱きついてしまっていた。その時、自分のものではないいくつかの記憶が私に流れ込んで来る。はからずもお姫様抱っこされる形になり、気恥ずかしさもあって赤くなってしまったかもしれない。彼女は屋上の真ん中まで来ると優しく降ろしてくれた。


「本当はお触り厳禁って先生に言われたんだけど、挨拶する前に飛び降りそうだったから、つい。」


「先生?」

いつも会う女医さんと目の前の彼女はどうしても結びつかない。それ位、健康的な笑顔だったから。


「そっ、私の学校の先生。正確に言うと、治療の邪魔になるから触られ無い様にってね。」


「どうして……?」

 それは、純粋な疑問だった。何が治療の邪魔になるのか、どうして見ず知らずの学校の先生が私のことを、それも誰にも言って無い秘密まで知っているのか?


「ごめんね、今日のところはまだあんまり話せないんだ。本当に挨拶だけの予定だったから。」


「挨拶?」

私が何も覚えてないことを差し引いても、彼女の言葉は意味不明だった。それでも、彼女に対して警戒心を抱かなかったのは、人を引き付ける不思議な引力の性かもしれない。


「ペケが退院したら同じ学校に通うから、よろしくの挨拶をね。でも私よりも軽くて助かったよ。重いと私の方が振り回されちゃうから。」


「ペケ?」

色んな疑問が湧き上がる中、何よりもその聞き慣れない呼び名がどうしても気になってしまった。


「ペケって可愛くない?エックスとかバツとかよりも良いと思うんだけど?それより、そろそろ戻った方が良いかな。バレちゃうと自由に出歩けなくなっちゃうし。」


「あのっ」

挨拶だって言う割に彼女は名乗りもしない。こっちには聞きたいことがいくつもあるのに。彼女の名前、彼女の不思議な能力、天井から落ちてくる男、海の底の景色と鯨、見たこともない怪物、そして間近に迫るトラック。


「今日はもう帰るね。本当は当番の日何だ。」


屋上を出る彼女に、無意識にも引きずられながら、私は何を訪ねたら良いのか、頭をグルグルさせていた。とにかく知りたいことがいくつも出来たのだ。そんな私に気付きもしないで、彼女はイタズラっぽく微笑みかける。


「今日のことは秘密ね、私も能力使ったのバレると怒られちゃうし。じゃあまたねペケ、次会うときに名前を思い出してたら自己紹介しようね。」

そう言って彼女は元気に去って行った。


 私は、なんとなく夢見心地で自分の病室に帰っていた。私とこの世界には、もう何の繋がりも無いと思っていた。それでも、屋上で宙ぶらりんになったあのとき、今までずっと確かな重力があったことに気付いた。それは確かな足場だった。


「変な名前」

 彼女の顔を思い出して少し心拍数が上がった気がした。それに、悪い気持ちは不思議としなかった。

 ペケという渾名は、彼女と私の間にある確かな重力に感じたから。

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