『元』美少女奴隷、策に溺れる

「ご主人様。おはよう」


「ぶふぉっ! げほっ、ごほっっっ!」


 金蛇の花園のとある朝。奴隷商人スネイル・トレイターが、早起きして気分爽快のまま洗面所で自慢のヘアスタイルを整えていた時間。


 音もなく背後に忍び寄った美女に息を吹きかけられ、花園の主人スネイル・トレイターは情けない声を上げて飛び上がった。


 そんな男の醜態を見ても眉一つ動かさずに無表情で鏡に映っているのは、さながら美しい人形、あるいは雪の精霊のような銀髪の美女だ。


 鏡越しに彼女の視線と目が合って、スネイルは若干頬を引きつり気味にして訊く。


「どうもレティ、おはようございます。しかしいったい、いつの間に来たのですか……」


 自分についた値段を完済し、かつての主人スネイルとの奴隷契約を解消した元美少女奴隷。


 奴隷には家名がないので、奴隷契約解消後はトレイターの名をおねだりして無事にそれを得た恐るべき奴隷、レティ・トレイターは、時折こうしてふらっと金蛇の花園にやって来てはスネイルを驚かせる。


「ついさっき」


「どうして来たのです?」


「理由がないと来ちゃダメ?」


 表情はあまり変わらないながらも、よく見ると眉を落としているレティ。付き合いの長いスネイルには彼女が心底から落ち込んでいるのがわかった。


 たしかにこの物言いでは、遠回しに来るなと言っているように聞こえますね、とスネイルは反省する。奴隷契約を解消したものの、レティとこの屋敷で過ごした十数年が消えてしまうわけではない。


 スネイルは最古参の元美少女奴隷レティを半ば家族のように思っていた。ちなみにレティは百パーセント家族――それもスネイルの嫁のつもりでいるがまあそんなのは些事である。


 とはいえ、いかにレティが大事な存在であろうと、彼女が前回自身の目の前に現れたときのことを簡単に忘れられるスネイルではない。


「理由がなくたって来てもらうのは構いませんがその……君には前回ひどい目にあわされたので」


 スネイルがいやがる新米美少女奴隷リズベットを手籠めにしようとした晩。彼女の代わりに寝室を訪れたのは先輩奴隷のレティであり、スネイルは彼女にさんざ搾られたのだ。夜が明け朝を迎えたとき、精も根も尽き果て生ける屍状態に陥ったことは記憶に新しかった。


 いまスネイルたちがいる洗面所は密室だ。もしもレティが変な気を起こせば、すぐにでもまた凶行に移れてしまう。レティを刺激しないよう、スネイルはいやな汗をかきながら出入口へ後退した。


「……それについては反省している。ごめんなさい」


 しかし、意外にもレティから返ってきたのは反省を述べる弁。足を止めて、スネイルはレティの整った顔をまじまじと見つめた。


「あのあと後輩たちにバレてすごく怒られた」


「そうだったのですか」


 ありがとうレティの後輩たち。スネイルは内心で喝采を送る。しかしそのレティへのお叱りは、あくまで好き勝手に暴れるレティという共通の敵を前にして、美少女奴隷ご一行が出る杭を打ったにすぎぬことをスネイルはまだ知らない。


「だから今日は別の用事で来た」


「別の用事ですか?」


「ご主人様をギルド本部に連れていきたい」


 冒険者ギルドは冒険者と呼ばれる何でも屋たちひとりひとりの身分を証明するための名簿登録から、彼らへ配分する依頼の取りまとめ、報酬の分配など、冒険者に係るありとあらゆることを管掌する組合だ。そして、レティが語るギルド本部とは、帝都に存在する冒険者ギルドの総本山のことを言う。


 トレイター商会のお得意様リストに冒険者ギルドは当然名を連ねているが、トレイター家の主人であるスネイルがギルドへ足を向けることは稀だった。スネイルは冒険者ではないし、何か商品を卸すならばリーチェをはじめとした商会の従業員がそれを行うからだ。


「話が見えませんね、レティ。私をなぜギルドに連れていきたいのですか?」


「自慢」


「自慢?」


「……ではなく。仕事で忙しいラクシャにたまには癒しをあげたい」


「いま自慢って言いませんでした?」


「気のせい」


 スネイルのツッコミを受けても、レティは顔色一つ変えずに誤魔化しきってみせた。よくわからないけれど深掘りしても無駄でしょう、と気を取り直し、スネイルは改めて彼女の提案を吟味する。


 レティのいう『仕事で忙しいラクシャ』とは、最強バ火力後衛であるレティとパーティを組み、最強回避タンクとして当時冒険者界隈を賑わせた二輪の華が一。


 レティとともに冒険者稼業で金を稼ぎ、自分を買い戻した現在は帝都冒険者ギルド本部のトップ受付嬢として冒険者たちから絶大な支持を得る、スネイルの元美少女奴隷ラクシャである。


 基本的に男性が多い冒険者稼業において、依頼や報酬の受け渡しを取り次いでくれるギルドの受付嬢という存在はそのモチベーションに大いに影響を及ぼす。


 その点、スネイルのお眼鏡にかなったラクシャはもちろん非常に優れた容姿の持ち主であり、彼女が座るカウンターの前には彼女の手ずから報酬を受け取りたい男どもが鼻息を荒くして長蛇の列を作るのだという。


「ラクシャがいない日はギルドの活気が目に見えて落ち込む」


「ゆえにあまり休みが取れていないと?」


「そう。だから久々にご主人様の顔を見せてあげたい」


 元とはいえ自分の奴隷に過酷な労働を強いる冒険者ギルドに少し思うところがないわけではなかったスネイルだが、レティの提案が長年の相棒を思っているということは理解できた。レティとラクシャ、二人の美しい友情に乾杯ですね。


 そうと決まれば、スネイルにレティの提案を拒む理由はない。


「わかりましたレティ。あなたのラクシャを思う気持ちは素晴らしい」


「照れる」


「ラクシャは日々疲れているという話でしたし、何かプレゼントでも持っていきましょうか?」


「それはいらない」


「え?」


「いらない」


 なんでですか……。


 スネイルが問うても、レティは唇を堅く結んだまま答えなかった。

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