名無しの猫 p.5

 暖かな笑みを浮かべていた女性が、今シャムの目の前にいる。


 さきほどの攻撃で壁に後頭部を強打し、血しぶきを上げ、虚ろな瞳でシャムを見つめ返しているが、間違いなく彼女だった。


 シャムの動きが止まったのは一瞬、だがそれは獣に取って反撃を取るには十分な隙だった。


 人間の形をした獣は、白衣の陰から大量の触手を噴出させる。


 飛び出てきた赤い触手の大群は、シャムの身体をいともたやすく貫き、シャムを貫いたまま水路の天井を突き刺した。


「っ、がはっ!」


 けたたましい音と同時、天井に大きくヒビが入り、串刺しにされたシャムは吐血する。


「シャム!」


 少し遠くで待機していたメリッサが事態の急転に気づいて駆けだしてくる。

 シャムの血を浴びて顔を赤く染めた獣はゆっくりと口を開き、息を吸う。


「キィィィイイイアアア!」


 雄叫びとも悲鳴ともとれない声が、水路内を走る。


 音は空間をも振動させ、大きなひびが入った天井を激しく揺らし、やがて天井は崩壊し、瓦礫の大群が落ちる。


「……メリ、サ」


 触手が腹から抜き取られ、地上へと落ちていくシャムは、メリッサがシャムに向かって飛んでくるのが見えた。



 間に合え!


 メリッサは力の限り足を働かせ、宙から落ちてくるシャムに向かって飛ぶ。


 メリッサはシャムの身体を空中でキャッチすると、落ちてくる瓦礫に向けて片腕を向けた。


「っ!」


 メリッサが短く息を吐くと、腕から爆炎が巻きあがる。


 爆発は落ちてきた瓦礫を吹き飛ばすが、勢い余って天井の傷をさらに広げ、水路トンネルの上にしかれた土までもが雪崩れ込んで来た。


 メリッサは爆炎の勢いでシャムを抱えたまま水路に着地すると、すぐに前方へと転がるように飛ぶ。


 数舜前までメリッサが着地した場所に、トンネルの天井だった大量の瓦礫と土砂が落下し、あっという間に通路を塞いでいく。


 シャムと倒れるように水路に転がったメリッサは真っ先に立ち上がり、銃を構える。


「キシャアア!」


 頭は人間の形を保ち、その他身体の部位が大量の触手を纏ったタコ型の獣がメリッサを襲う。


 回避はもはや絶望的、触手を迎撃するにも数が多すぎる。


 しかし、メリッサが放った弾丸は襲い来る触手を眼中に入れず、まっすぐに獣の胸へと飛んでそれを撃ち抜く。


 獣は後方へと吹き飛び、メリッサの眼前まで迫っていた触手も勢いよく引いていく。


「チッ!」


 頭を狙ったが咄嗟のエイムではそう都合良く行かず、メリッサは思わず舌打ちする。


 壁に激突した獣は、形勢不利と判断したのか、小さな脇道へと退散した。


「シャム!」


 敵が引いたのを確認し、メリッサは水に突っ伏したシャムへ駆け寄る。


 身体を起こすと、シャムの腹に大穴が空いており、致命傷であることは明らかだった。


 すると、シャムの身体が薄らと光り出し、シャムの前に九つの青い球体の炎が浮かぶ。


『うお、なんだこりゃ!』


 驚くルーズとは裏腹に、事態を知るメリッサは落ち着いてその炎の球体を眺める。


 九つの炎のうち、一つが破裂すると、炎はシャムの身体を覆い、シャムの傷口がビデオの巻き戻しのように、みるみると塞がっていく。


「……うっ」


 傷を完全に回復させたシャムは、意識は戻っていないが小さくうめき声を上げる。

 それに驚き、ルーズが点滅する。


『おぉ。前にもやられたと思ったらケロっと起き上がってきてたけど、どうなってんだ』

「シャムに打ち込まれた獣の因子と、この娘の邪術、『九生魂(ナイン・ソウル)』の合わせ技よ。生きた獣の心臓を抜き取って、それを九つまでストックすることが出来るのがシャムの邪術。その抜き取った心臓に詰まった渦を全て使い切って獣の因子を活発化させて超再生を心臓の数だけ使えるの」

『なんだそりゃ、すげーな。つーか、獣の因子って……』


 ルーズがそうメリッサに訪ねようとすると、シャムが目を開き、すぐさま状況を察してメリッサに頭を下げた。


「ごめんメリッサ。しくじっちゃった」

「……いえ、それよりも今は――」


 途端、メリッサの言葉を遮って、獣の雄叫びがトンネル状の水路を反響して響く。


「他の獣達に気づかれたみたいね」


 メリッサはさきほど崩落を起こしてしまった場所へ振り向く。


 そこには水路の天井を張っていたコンクリートの瓦礫やその上に覆われていた土砂が見事に進路を塞いでいた。


 メリッサは状況を見てすぐに懐から古ぼけた札を取り出した。


 それを地面に叩きつけると、札に刻まれた文字が発光し、光の柱が辺りを包み込んだ。


 空間が揺らぎ、天地がひっくり返る感覚に襲われる。


 現実空間から同じ外見をした別次元空間へと移動する異界の展開はスリンガー単独でも可能だ。


 広範囲に異界を展開しつつ獣の注意を引きつけられる避雷針ほど利便性はないが、邪術の術式が書かれた札を使えば、邪術使いであれば誰もが異界を展開出来る。


 メリッサは耳に付けていた通信機を開き、瓦礫の向こうにいるリーエンへと繋げる。


「リーエン、聞こえる? こっちは奇襲に失敗。他の獣にも気づかれたから異界を展開したわ」

『あぁ。崩落した瞬間は見えていた。私の方は獣を取り押さえたが、もう生かしておく意味はないな』


 通信越しだが、リーエン側から銃撃音が一発上がり、近くに抑えていた獣にトドメを刺した事を知らせる。


『起こった事は仕方ない。このまま深部へ向かう。二人は迂回して合流できるな?』

「えぇ、水路内の経路は一通り頭の中にあるわ」


 作戦の立て直しを段取り、メリッサは通信を切ってシャムへと振り向く。

 傷はすっかり塞がり、シャムはゆっくりと立ち上がった。


「行くわよ」

「……うん」


 メリッサはシャムが完全に回復したことを確認すると、脇道にある通路から迂回ルートに入り、シャムもその後に続いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る