その音

 コーン、コーン、コーンと、隣の部屋から音がする。いかにもカーソルが移動しています、という音。ここは古い2DK、隣の部屋との仕切りはふすまだけ。隣室の音は、だいたい聞こえてくる。


――だいじょうぶかなあ。


わたしは気になって、キーボードを打つ手を止め、立ち上がった。



「ミーティングに行けなかった。いまから帰る」

 夫からそんなLINEが来たのは、二年前の夏の終わりだった。来るべきときが来たな、と思った。

 いつからだろう。夫はだんだん夜、眠れなくなっていった。正しくは、疲労困憊していても、早朝に目覚めてしまう。二度寝もできぬまま、朝、どんよりとした顔をして会社へ向かい、日付が変わるころ、「また仕事が終わらなかった」と帰宅する。夕飯を食べさせ、風呂に入れ、追い立てるように就寝させる。それなのに早朝覚醒して、「眠いのに寝られない……」と、またどんよりとした顔をして出社する。その繰り返しだった。



「いま、どこにいるの?」

「A駅」

「A駅ならウチへ一本だね。ひとりで帰れる? 迎えに行こうか?」

「帰れると思う」

「そっか、気をつけて」


 その日は金曜日、時刻は夕方。迷ったけれど、聞いてみた。


「どっか病院行く? 心療内科とか。土日は閉まっちゃうからさ。探そうか?」

「うーん、胃の調子、見てもらえるところを探してほしい」


 ここのところ、夫はずっと胃腸の調子が悪く、出社前はえずくことも多かった。わたしはA駅周辺で、評判のよさそうな内科をいくつかピックアップし、夫にURLを送る。


「このXって病院へ行ってみるよ。今いるところから、近いし」


 無事診察が終わったと報告があり、そのあと、「電車に乗った」「あれ、俺、なんで逆方向に向かってるの?」「乗り直した」「また逆方向に乗ってしまった」「どっちが正しいんだ?」「やっと正しい電車に乗った」と紆余曲折を経て、夫は帰宅した。


 夕飯を食べながら話を聞く。大事な社外ミーティングがあるので、上司や同僚と会社を出たところで、気分がとても悪くなった。上司からも、「顔色ひどいよ、今日は帰ったら」とすすめられ、帰宅したとのことだった。

「とりあえず、土日はゆっくり休んでさ。あとのことは、またあらためて考えよう」



 わたしが「このひとやべえな」と最初に思ったのは、いつだったろう。ひとつの兆候は、言い間違えが異様に増えたことだ。

「たとえば、そこに桜が咲いているでしょう」

散歩中、夫が指さした花壇には、チューリップが揺れていた。

「で、桜を写真に撮ったとして……」

しかも、単語を間違えたまま話し続ける。そんなことが日に日に増えていった。


 振り返れば、だいぶ前から、夫は「ふるふる」をやめていた。「ふるふる」というのは、一時期流行した、実用書発のエクササイズだ。その名の通り、腰を左右に振るだけ。簡単だけれど、続けるとかなり効果があるのだという。

「筋肉、ついてきたと思わない? 簡単だよ。鈴ちゃんもやればいいのに」

「ふるふる」にかぎらず、夫はちょっとしたエクササイズが好きだった。忙しいときでも、すき間時間を見つけて地味に長くつづけていた。それを、まったくしなくなった。


 そういえば、夫は英語も勉強しなくなっていた。夫にとって、英語は勉強というより趣味であり、ライフワークの一環だった。何の目標がなくとも、単語帳アプリなどをためし、英語学習者向けニュースサイトで簡単な英文を読み、つねに何かしら勉強していた。こちらもすき間時間で、お金をかけず、地味に長くつづけるスタイル。

 しかし、ある日、夫が言った。

「最近、電車のなかで、単語帳やれてない。寝ちゃうから」

早朝に目が覚めるようになったころだった。

「ずーっと睡眠不足じゃん。そんなことまでやってたら死んじゃうよ。気にしない、気にしない」

「……うん……」

 ふたりでいるときも、英語のアプリを開くことがなくなった。


 ほかにも。漫画を読まなくなった。本を読まなくなった。映画を見なくなった。彼の「好き」は、どんどん抜け落ちていっていた。


 翌土曜日。夫はうつろな目で壁によりかかって、ただ座っていた。

「映画でも見たら。ネトフリとか」

 そう提案だけしてリモコンを渡し、隣の仕事部屋に引っ込んだ。わたしは在宅稼業の自営業者で、その日はまだ仕事があった。そして、ふすま越しに、コーン、コーン、コーンと、カーソルが動く音を聞いた。Netflixでコンテンツを選ぶとき、カーソルが移動すると、そういう音がする。とりあえず、夫は映画を見る気にはなったのだ。しかし、コーン、コーン、コーンは、やまなかった。コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン、コーン……。そして、無音になった。BGMが流れるわけでも、セリフが聞こえてくるわけでもなく、無音。ホラーか。


 隣の部屋へ行くと、夫はリモコンを手に、うなだれていた。テレビの画面は、スクリーンセーバーになっている。夫は泣きそうな顔で言った。

「……選べないんだ……」

やべえな、と思ったが、とりあえず気にしないふりをして、

「『ジョン・ウィック』見たいって言ってたじゃん。それにしなよ、スカッとしそうだし」

と、リモコン操作をして流し始めた。仕事部屋に戻ると、ふすま越しに、銃声やらキアヌ・リーヴスの声やらが聞こえてきて、それは二時間やむことはなかった。感想を聞くと、「キアヌはやっぱりかっこいい、でも犬がかわいそうで……」と興奮気味に話しはじめて、ほっとした。



 それから二年、いろいろなことがあった。


 心療内科をさがして通いはじめた。何をするにもマニュアルを読み込むタイプの夫は、図書館で「認知行動療法」「鬱とは」などの本をどっさり借りてきて読み漁った。なかでも、『ツレがうつになりまして。 』は、真面目な会社員の夫と、自営業者の妻という組み合わせも含め、我が家に状況が似ていてびっくりした。


 しばらく休ませてほしいなどの会社への連絡メールは、あまりにもつらそうなので、わたしが遊び半分で作って、夫が添削する方法で作成した。


 夫がすこしずつ料理をするようになった。それがとんでもなく美味しく、料理の才能があることが発覚した。何につけても謙遜し、素直にほめ言葉を受け取らない夫だが、料理に関しては、ほめるととても誇らしそうにする。


 英語の勉強を再開し、そのために見始めた『ウォーキング・デッド』がおもしろすぎて、結局、日本語字幕で一気見した。


 働いていないことについて、長く「幽霊になったみたい。世間で、俺だけいないみたい」と言っていたが、それも言わなくなった。


 そうこうしているうち、コロナ禍に突入した。


 結局、復職のビジョンは見えず、夫は長く勤めた会社を辞めた。でもそれは、あの夏の日、いやそれよりずっと前から、ふたりともわかっていた結果な気がする。



 そして、いま。隣の部屋から、コーン、コーン、コーンと、カーソル音がする。けっこう長い。気になる。

「なんか見るの?」

 隣の部屋に行ってみると、夫がリモコン片手に、画面をにらんでいる。

「見たいものがありすぎる……困る……。『東京卍リベンジャーズ』のアニメも見たいし、『ウォーキング・デッド』の新エピソードもネトフリに入ってる」

「贅沢な悩みだよねえ」

「学生のときにネトフリあったらヤバかったな。ずっと見てたろうな」

 そんなことを言いながら、結局、「今日は瞑想をして、寝る!」と、『ヘッドスペースの瞑想ガイド』という、瞑想のお供番組を再生しはじめた。そういえば、夫はむかし、瞑想していたっけ。マインドフルネスってやつ。それももちろん、会社勤めの最後のほうでは沙汰やみになっていた。いまは瞑想だってするし、ゴロゴロしながら英単語アプリやってるし、漫画も読むし、映画も見る。夫の「好き」は復活し、こうやって何を見るか、楽しく迷うことだってできる。


 夫はこの春、非正規だが、むかしからやってみたかった仕事をはじめた。仕事自体はとても合っているようなので、いずれ、独立してしっかりとしたマネタイズができるといいねと話している。

 働きはじめてから、「どうしよう、もう秋だ」と、季節の変わり目に焦燥を口にすることもなくなった。


 いまはまだ、カーソル音を聞くと、あの日の不吉さを思い出す。けれど、近く、コーン、コーン、コーンと、カーソル音を聞いても、「ああ、迷ってるんだな」としか思わなくなるだろう。そうやって、人生は進んでいく。

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