五月のまばゆいヨーロッパの光は、いまも心のどこかにある。
その年のヨーロッパは、まばゆかった。
陽ざしが強くて、あらゆるものが鮮やかに見えた。
どこへ行っても薔薇の香りがした。
オーストリアはウィーンの空港に降り立ったのは、五月のこと。でっかいバックパックをかつぎ、一か月先の帰国便を予約した航空券を握りしめ、中央駅前のちいさなホテルに宿泊した。
その一泊は旅行代理店を通じて予約し、つぎの一泊は古城の馬小屋を改築したというユースホステルをインターネットを通じて予約していた。あとは白紙。その日、着いた街の観光案内所で宿を探して泊まるか、適当に電話するか。そんなふうにして、ドイツ語圏を南から北へ抜け、さいごはフランスに渡ってパリのドゴール空港から帰国する。それがざっくりとした旅のプランだった。
ただし、宿はユースホステルか安いB&Bが基本。時間ならたっぷりあるが、なるべくお金は節約したかった。なぜなら、わたしは当時、無職だったからだ。
二泊目にして、トラブルは発生した。バスに揺られて着いた郊外のユースホステルは、なんと予約ができていなかった。送られてきたメールに、もう一度返信をする必要があったらしい。
「きょうは満員で、泊めてあげられない」と、スタッフの女性は気の毒そうに言った。わたしはまたバスに揺られて街まで戻った。
幸い、街中のユースホステルに空きがあり、投宿することができた。
そこでは、日本人女性と同室になった。彼女は、看護師の資格をいかして派遣で働き、まとまった金ができると、長い休みを取って旅に出ているのだという。彼女はユースホステルでの防犯のコツを教えてくれた。
それを皮切り、旅の途中、いろいろなひとに会い、こまごまとしたトラブルにあった。
ミュンヘンの美術館へ行く途中では、南フランスから来たという老夫婦といっしょに道に迷った。しゃがれた声で「なんだかぜんぜんわからない、地図を見てもわからない」というようなことを言いながら、夫婦は皺が刻まれた手をつないでいた。
中部ドイツのバンベルグでは、「留学に来たら手違いで寮が用意されておらず、ユースホステルに滞在している」という中国人女性と同室になり、街を案内してもらった。もうひとりの同室者は韓国人女性だったので、アジア人三人で、夜更けまで恋愛の話をした。もちろん、互いの言葉は満足にわからないから、辞書を引いたり、互いの母語をちゃんぽんにしたり。
魔女伝説で有名な山にあるクウェートリンブルでは、駅のロッカーにリュックを預けたら、17時で駅舎が閉まって取り出せなくなった。駅舎隣の宿舎らしきところで窮状をうったえるもどうにもならず、結局、着の身着のままでユースホステルに泊まった。
ハンブルグの大きなユースホステルでは、ドイツの鉄道会社に勤めているという女性と出会い、なぜかふたりで夕焼けの倉庫街を散歩した。高級そうなスーツを身に着けた彼女は、ロマンチックな風景のなか、「出張が多くて疲れるワ。フー」と、煙草をくゆらせた。当時のドイツは、喫煙率が高かった。
北ドイツの砂浜でぼんやりしていると、灰色の空のもと、全裸の男性がザバザバと海からあがってきた。波打ち際では、樽のような腹をした老夫婦が、手をつないで海へ入ろうとしては、「つめたーい!」と後退を繰り返していた。やはり全裸だった。浜辺では親子四人がビーチバレーに興じていたが、これまた一家全員、全裸だった。これについては、北ドイツの海水浴の特殊な風習という説も、ヌーディストビーチ説もあり、いまだによくわからない。
どれも思い出深いものだが、人生観が変わったり、何か不思議なインスピレーションを受け、「帰国したらこれをやってみよう!」と思いついたり、そんなミラクルは起きなかった。
旅に出る前まで働いていたのは、長い就職活動のすえに見つけたちいさな会社だった。ある日、わたしをルノアールに呼び出し、社長と上司は告げた。
「丸毛さんさあ、あなたの業績、こんな感じなの。新卒だし、一年目はなんとかなるかと思っていたけど、二年目もこれ。正直、うちではこれ以上雇って教育するのは難しいよ」
というわけで、そこをクビになってしまった。
先輩たちは、笑顔で言った。「若いんだし、丸毛さんなら大きな会社にだって入れるんじゃない? うらやましいなあ」。全社員14人の会社を能力不足で追い出されて、中途採用で大企業に勤められると思っているなら、どうかしている。いまなら、「若いっていいね」の言いかえだったとわかるけれど。
とにもかくにも、わたしは途方に暮れた。がんばって就職活動をして、会社員になって、少ないながらも給金を稼いだときはうれしかった。やっとこの社会に居場所を見つけられたように思った。理不尽なこともあったけれど、がんばったつもりだった。でも、クビになった。勤めて丸二年で、戦力外通告を受けた人間は、まわりには誰もいなかった。
これから何をすればいいのか、何をすれば自分は社会の歯車になれるのか、皆目わからなかった。頭も回らなかった。唯一思いついたのが、貯金をはたいての長期旅行だった。
そんなわけで、北ドイツの美しい古城の街、リューベックで、わたしはベンチに座って呆然としていた。旅に出て、半月以上が過ぎていた。目の前には青い空が映った湖が広がり、さざなみが立っている。色合いも何もかも、絵はがきから抜けてきたよう。別の世界にあるみたい、と思った。
と、突然、隣のベンチに座っていた老婦人が、「ケセラセラ」的な歌を歌い始めた。驚いてそちらを見ると、「あなた、こーんな顔をしているんだもの」と眉間にしわを寄せて笑った。ドイツ語だったが、なんとなく意味はわかった。眉間を指でこすっていると、老婦人が、「人生は『schwer(シュヴェーア)』だよね。だけど、なんとかなるよ」というようなことを言い、「ケセラセラ」のつづきを歌ってくれた。schwerはドイツ語で、重い、難しい、といった意味だ。外国人であるわたしに向け、妙にはっきりと発音された、schwerの響きが妙に耳に残った。
自分の殻を破るでもなく、眉間にしわを寄せてとぼとぼ歩いていたわたしだったが、人々は優しかった。でっかいバックパックを背負って路線バスを降りたその瞬間、道行く婦人が「ユースホステルはあっちよ」と教えてくれたこともあった。
そうして、また半月、いろいろなひとに出会い、帰国した。
日本へ帰っても人生は変わらなかった。一か月ヨーロッパ旅行をした、という事実があるだけだった。ただ、帰国して顔を見せに行ったとき、親からは「あんた顔変わったね。旅行行く前は、変な顔しとったよ」とだけ言われた。
とはいえ、雇用はなんともならなかった。自分なりに社会の居場所を見つけるまでは、そのあと、遠回りが必要だった。
「人生観を変える旅」では決してない。なんてことのない旅。
あれから、ずいぶん時間が経った。いいのか悪いのか、あれ以来、わたしは長期の旅に出たことはない。いまは紆余曲折を経て、しがない自営業者となった。零細だが、「やったぶんだけ金が入る」「やった仕事を見て依頼がくる」といったシンプルさが性に合っているようで、会社員のときより、よほど安定を感じる。
旅の記憶は年々薄れていく。それでも、ときどき、出会ったひとたちは元気かな、と考える。「人生はschwerだ」とつぶやいてみたりする。カラリとした空気にただよう薔薇の香りを突然、思い出すこともある。
五月のまばゆいヨーロッパの光は、いまも心のどこかにある。
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