花鳥風月、風花雪月。

吾妻栄子

花鳥風月、風花雪月。

 “花鳥風月かちょうふうげつ


 自然の美しい風景を意味する日本の四字熟語だ。


 多分、桜の花が満開で、うぐいすの鳴く声がして、温かなそよ風が吹いて、夜には象牙色の満月が輝くような、そんな春の風景を想定しているのだろう。


 まだ何も知らなかった頃、私たちはそんな話をしたことがある。


 何度目かのデートで喫茶店のテラス席ですぐ傍の五分咲きの桜を観ながら私は抹茶ラテ、あの人はカプチーノを飲んでいた。


――ホーホロホロホロホロ、ホケキョ!


 不意に鶯の鳴き声が降ってきた。


 姿は見えないが、どこかに留まっているらしい。


 甘い花じみた香りを含んだ柔らかな風がまだ冬向けの厚手の黒タイツを履いた足元を通り過ぎる。


――花鳥風月だなあ。


 思わず呟いた。


 大学の中文科の同期で、互いに気になって、デートして、でもはっきり言葉で形にはしていない間柄で眺めるには、この風景はいかにもおあつらえ向きのような、しかし、何かが出来すぎていて却って不安を覚えるような感じがあの時も確かにしていた。


――中国語なら“フォンホアシュエユエ”だな。


 お母さんが台湾人の彼は歌うようにそう告げると、手帳とボールペンを出して罫線の引かれたページを開いて記した。


 “風花雪月”


 こちらが気後れするような、優しい四字が並んでいる。


――中国語だと順番が変わって、鳥が消えて雪が入るんだね。


 何だか吹雪の向こうに蒼白い三日月が光っているような、雪女でも出てきそうな、良く言えば神秘的な、悪く言えばどこか不気味な冬の風景が浮かんでくる。


 こうした中に咲く“花”もソメイヨシノのような淡く優しい種ではない気がした。


 “花鳥風月”


 五線譜じみた罫線のページにまた新たな四字が綴られた。


――“風月ふうげつ”って中国語だと“フォンユエ”でイロコイって意味もあるんだよね。


 イロコイ、とどこか上擦った声で述べた彼は苦笑いする。


 耳にした音声が一瞬、間を置いて“色恋”に変換される。


――そうなんだ。


 日本語の“花鳥風月”でも中国語の“風花雪月”でも含まれる二字を並べて、“風月いろこい”。


 流麗に記された八つの文字を見下ろして私は首を傾げた。


――何で風と月で色恋なのかな?


 女性の美によく重ね合わされる“花”の方が“色恋”を意味する隠語には相応しく思える。


――さあ。


 彼は苦笑いした顔のままカプチーノに口を着けた。


――まあ、雪だと凍って冷たいから確かに恋愛には相応しくない気はするけど。


 こちらもそこで切り上げて抹茶ラテを口に含む。


 熱かった飲み物は思った以上に冷めてぬるくなっていた。


 テラス席で風に吹かれているせいだろうか。


 ふと向かい側から彼の声が届いた。


――人が手に入れようと思えば、花は摘めるし、鳥も籠に捕えられる。


 こちらとぶつかった眼差しは微笑んではいたが、どこかに寂しい色を含んで見える。


――でも、風も月も掴み取ることは決して出来ないよね。


 ふわりとカップを持った手元を撫でるようにそよ風が通り過ぎた。


 肌触りは柔らかくほんのり温かな風なのに過ぎた後にはひやりとする。


――ホーホロホロ、ホケキョ!


 姿は見えないまま先程より遠くなった鶯の声が聞こえた。


 *****


 “遅くなる。先に寝てて”


 またいつものLINEが来た。


 こちらもいつもの六文字を返す。


 “分かりました”


 自分の送り出したLINEには“既読”の二字が付かないままなのもいつものことだ。


「ママ、見て」


 五歳の娘の声に我に返ると、窓のカーテンを捲って向日葵ひまわり柄の半袖パジャマから抜き出た小さな手で指し示している。


「今日も満月だ」


 そうだ、昨日の晩もこの子と二人だけで象牙色の丸い月を眺めたのだったと思い出しつつ、洗剤の人工的なフローラルの匂いが全体に微かに漂う寝室の奥の窓辺に近付いていく。


 幼稚園が夏休みに入って一週間近く。


 平日はずっと幼い娘と二人きりで過ごす一日の繰り返しなので、前の日の細部ディテールなどすぐ忘れてしまう。


「今日は、満月じゃないよ」


 昨夜見上げた満月よりも少し低い位置に浮かんだ、やや端の欠けた月。


「何で満月になったのに欠けちゃうの?」


 普段は母親の私に似ているとよく言われるが、この子は寂しい顔をするとあの人そっくりだと思う。


「明るく見える所の向きが変わっちゃうから」


 五歳の子にこれで分かるかどうかは自信がないが、母親の知識レベルではそれしか言えない。


「ずっときれいな満月に見えればいいのに」


「ママもそう思うよ」


 答える内にも、端の欠けた月を墨色の雲が急速に覆い隠していく。


 締め切ったガラス窓の外では風が吹いているのだろうか。


「もうおやすみしようね」


 小さな体を寝かせて雪の結晶模様をあしらった水色のタオルケットを掛ける。


「パパは今日もお仕事で遅いの?」


「そうだよ」


 近頃はずっと帰りの遅い夫が本当に仕事なのか、あるいは他に女性がいるとかいう裏があるのか、言葉にして確かめることは出来ないまま、今日もまた過ぎていくのだ。


「ママはパパが好きだから結婚したの?」


「え?」


 思わずギクリとして見やると、薄暗い中でこちらを見上げる眼差しはどこか寂しかった。


「ママ、パパのこと好き?」


 どうしてそんな叱られた後のような心細げな面持ちなのだろう。


「好きだよ」


 二人の間に生まれてきてくれたあなたのことは、ちゃんと。


 後の部分は胸の内で付け加えながら、小さな丸い頬を撫でる。


「もう寝なさい」


 こちらを見上げる幼い顔は不安げなまま両の瞼を閉じた。


 *****


 この子も色々感じ取るようになった。


 安らかに寝息を立てる、少し大きな赤ちゃんじみた五歳の顔に思う。


――ママ、パパのこと好き?


 恋愛としてはもう好きではないし、相手も同様だろう。


 でも、私に関しては他の人に恋愛感情があるわけではなく、また、新たに恋愛したいとも思わない。


 家庭を持って、子供を授かった以上、守るべきものがあるからだ。


 あの人もそうであって欲しいけれど、どうだろうか。


 閉めたカーテンの隙間から幽かに白い明かりが漏れてくる。


 風が雲を払って、端の欠けた月がまた姿を現したのだろうか。


 もう寝よう。


 目を閉じたところで、玄関の方からガチャガチャと鍵を開けるいつもの音が響いてきた。(了)

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花鳥風月、風花雪月。 吾妻栄子 @gaoqiao412

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