手段その49 ユートピア

 『臨時休業』という札に、『アルバイト急募』という張り紙を店の前に掲載してから俺たちは、誰もいない暗い店の灯りをつける。


「お兄様、あったかいコーヒーでも入れます。一度心を落ち着かせてください。

「あ、ああ」


 別に親父とは、二人でどこかに出かけたりそれこそ遊んだりするほど仲が良かったわけではない。

 しかし、あの真面目で仕事一本だった親父を、尊敬はしていた。


 それに、ここまで俺を育ててくれた彼に、何も恩返しすらできぬまま親父はどこかに消えてしまった。

 それがショックで、まるで魂が抜けたように俺は茫然と、渚に寄り添われながら店の椅子に座る。


「まさか、親父が」

「いなくなった、のではなくしばらく家を空けただけと思えばいいのですよ」

「な、渚は寂しくないのか?ほら、お前だって母親が急に」

「私は、お兄様がいれば寂しくありません」


 優子さんと渚の関係がどれほどのものだったのかは知らないが、見ている限り仲のいい親子だった彼女たちもまた、今日という日をもって袂を分かつことに。


 しかしだ。渚は冷静そのもの。

 むしろ嬉しそうにも見える。


「はい、どうぞ」

「……なあ。明日からどうするんだよ。生活もままならないぞ」

「それなら。明日から渚はしばらく休学しますので」

「な、なにをいってるんだ。そんなことさせられるかよ。それなら俺も」

「お兄様はお勉強を頑張ると、渚と約束したではありませんか。それとも、あの誓いは嘘だったと?」

「い、いやそうではないけど」

「では、そういうことで。大丈夫です。メニューをしぼればひとりでもなんとか回せますし、アルバイトが見つかればすぐに元の状態に」


 そう言って渚はコーヒーを静かに口につける。


 外の雨の音が静かな店内に響く。

 

「しかしすごい雨だけど、親父たちは大丈夫なのか?」

「どうでしょうね。でも、今は自分たちの心配をした方がいいですね。明日からなんとかなるとはいっても、大変な日々には違いないですから」

「そうだな。俺も真っすぐ家に帰って、渚を手伝うよ」


 コーヒーを飲み終えると、今日はそのままそれぞれの部屋に戻った。


 そして。ベッドに寝転んで天井を見上げながらこれまでの出来事を振り返ってみた。


 おもえば、渚が我が家にくるまでは随分と平和で、何事もない人生だった。


 それなのに、彼女がやってきてからというものの、波乱の連続だ。


 美人局にあいそうになったり、昔好きだった子に脅されたり、親友が事件を起こしてつかまったり、先生たちが不祥事でいなくなったり。


 そして今回の親父の件。

 これは果たして偶然なのか?


 渚が何かをしてこうなったのか、それとも渚がいてくれたからここまでひどいことが重なってもなお、俺はここにいられるのか。


 そのどちらが正解なのかわからないまま、静かに眠りについた。



 翌朝、俺は珍しく勝手に目が覚めて、店の方に行ってみると渚がひとりで掃除をしていた。


「おはよう御座いますお兄様。お早いですね」

「おはよう渚。今日からしばらく大変なんだからあんまり飛ばすなよ」

「ええ、でもこのお店だけは守らないといけないので。お兄様は大船に乗った気分で学校に行ってくださいね」

「ま、まあ心配はしてない。渚なら大丈夫だって思ってるから」


 自分たちのことを心配した方が、なんて渚は言ったけど、それでも俺は親父が心配だ。


 いまごろ、どこで何をしてるのか。

 早く連絡の一つでもくれたらいいのに。


「さてと。準備も終わりましたし、開店までは時間もありますから少しゆっくりしましょう」

「すまんな。俺もできる限りのことはするから」

「いえ。お兄様は渚という大船に乗っていただければそれで……ところで」

「ところで?」

「乗りますか?船に?」

「ごくっ」


 朝から渚という船に揺られ、疲労感たっぷりで学校に向かうこととなったのは言うまでもなく。


 見送りに出てくれた渚の笑顔は、これから始まる二人だけの生活の大変さなど微塵も感じさせないほどに眩しかった。



 いってらっしゃいませ、お兄様。


 このお店は、渚とお兄様の思い出の場所。

 何があっても守り通します。


 それにしても、お義父様は本当にお母様が好きなのですね。


 一緒に遠い地で暮らしたいと言われて、こうもあっさりついていくとは、恋は怖いものです。


 でも、お母様は許したようですが、一度でも過ちを犯したあの男を私は父とは思えません。


 だからさっさと退場いただきました。

 あの人もまた、私とお兄様のユートピアには不要です。


 もちろん、あの母もですが。


 都合よく二人ともいなくなってくれて、渚は本当に幸せです。


 ふふっ、あと少し。あと少しでお兄様と渚の、理想の未来が手に入ります。


 あは、あはは、あははははは。



 涼宮も渚もいない学校は退屈だ。

 透と二人でグダグダと。


 しかし昨日親がいなくなったなんて話を透にすることは躊躇して、渚は体調不良で休んでるということでごまかした。


 昼休み。

 渚に連絡してみたが、もちろん返事はなく。


 忙しいのだろう。

 きっと。ひとりで仕事を頑張っているに違いない。


 でも、早く逢いたい。

 寂しいな、渚のいない学校は。


 早く終わらないかな、授業。


 終わったら、人生で一番の全力疾走で家に帰ろう。


 ソワソワしながら、ずっとそんなことを考えている。


 ずっと。渚のことを考えている。

 

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