手段その46 景色
翌朝、親父は店にいた。
それは当たり前のことなのだけど、用事とやらはもうよかったのだろうか。
「親父、今日はいいのか?」
「あ、ああ。急に予定がなくなってな。二人には悪いから今日は休め」
「なら、お言葉に甘えるだけだ。昨日の給料、もらっていくよ」
急に休みになった。
だから一度部屋に戻ると、渚が俺のところにやってくる。
「お兄様、今日はお休みですね」
「昨日親父から何か聞いてたのか?だったら言ってくれたらよかったのに」
「お義父様の用事とやらはもう大丈夫なようです。それより、今日は私、少し遠くに行ってみたいです」
もちろん日帰りできる程度に。そう言って渚は当たり前のように俺の目の前で着替えを始める。
「あっ」
「どうしたのです?……もしかして、興奮されました?」
「い、いや……昨日してないし」
「まあ。では、渚を味わってからお出かけといたしますか?」
「ごくっ」
渚の作り物のように綺麗な体からは何か特別なオーラかフェロモンでも出ているのだろうか。
そう思わせるほど、彼女の肌を見ると俺はひどく興奮する。
動物的というか、もう野生にかえってしまう。
そして実家でひたすら渚と汗だくになった後、ようやくでかけることになった時にはもう昼を回っていた。
◇
昨日の渚の件については不明なことだらけ。
しかし、昼間のニュースでこんな報道があった。
キャバクラ勤務の女性が昨夜、ボロボロの状態で発見されて身柄を確保されたそう。
その女、どうもこの辺りで買春を働いていたとのことで、何らかの事件に巻き込まれた可能性があるということだったが、その女性が昨日の人なのかどうかは定かではない。
「渚、どこに行きたいんだ?」
「少し遠くへ行きたいと思っていましたが出発が遅くなりましたので近くで買い物でも構いませんよ」
そう話す彼女と歩いていると、やがて昨日渚を見かけた駅裏に。
昨日、確かにここで渚は女の人を脅していたように思えたのだけど、やはり気のせいだったのか。
そんな時、ふと視線を落とした渚はフッと笑った。
「何がおかしいんだ?」
「いえ、なんでも。でもおかしいですよね。人ってどうしても欲望には勝てない。もちろん私も例外ではありませんが」
「なんだよ急に意味深だな。何かあったのか?」
「そうですね。色々あったかもしれませんが、別にお兄様には無縁なことです」
渚の発言の意図は不明だが、その言葉には重みがあった。
結局人は欲には抗えない。
食欲、性欲はもちろんだし、お金がほしい、ほしいものを手に入れたい、ちやほやされたい、認められたいなんて欲求も誰しもがどこかで持っている。
それにつけ込む輩がいるのも確かだし、それにハマる人間が後を絶たないのもまた仕方ないこと。
でも、渚はなんでこんな話をしたのだろう。
「お兄様、少し先の展望台に行ってみませんか?景色を眺めながらお茶なんていうのもいいものかと」
「そういえば、あんまり行ったことないな。ああ、いいよ行こう」
展望台から見える景色なんて殺風景なこの街だけだ。
でも、多くのカップルがやってきて賑わうのはきっと、その景色を見たくてというよりその人とこの景色を見たいから。
結局何をするにもどこに行くにも、誰と一緒かということが最も重要な要素なのだ。
もちろん俺にとっての誰かとは渚だ。
渚となら、この寂れた街の景観すらも希望に満ちた世界に見える。
「お兄様、綺麗ですね」
「ああ、そうだな。それに風が涼しい」
「ああ、お兄様とこうして同じ景色を見ていられるなんて夢のよう。私、このまま死んでも悔いはありません」
俺もだよ、と甘い言葉がつい口から飛び出してしまったが、不思議と恥ずかしさはなかった。
二人でしばらくぼんやりと、ベンチに腰かけたまま街を見下ろしていると、偶然そこに透と涼宮が通りかかった。
「あ、どうしたんだよ二人で」
「おうハルト、相変わらず幸せそうだな。いや、たまには気分を変えてと思ってさ」
何でもない様子を装っているが、俺は見た。
二人がさっき手を繋いでいて、慌てて離したのを。
「ふーん。涼宮、よかったな」
「な、なによ。別に何もよくなんかないわ」
涼宮も随分照れていた。
そして、渚を見ると彼女はなぜか深々とお辞儀する。
「渚ちゃん、ありがとね……」
「何のことでしょうか?私は何もしてませんよ」
「そ、そうね。うん、そうだよね。でも、今度二人には何かご馳走させて。日頃の感謝も込めて」
「無理すんなよ。それより、もう家の方はいいのか?」
「うん、透もかなり手伝ってくれて……まあ、だから今日はそのお礼ってだけよ」
全く涼宮も素直じゃないなあと、やれやれといったふうな仕草をとったところで彼女がプイッとそっぽを向いた。
そして二人はまたねといって、やがて帰っていく。
その姿を見送りながら、あの二人がうまくいってくれたらいいなと心から願う。
「意外だったけど、案外いいところに落ち着いたのかもな」
「そうですね。涼宮様も胸のつっかえがとれたのでしょう」
「というと?」
「あら、特に意味はありませんわ」
そうこうしていると日差しを落ちてくる。
遅くなる前に帰ろうと、二人で立ち上がり横目で景色を見ながら展望台を降りていく。
その時渚が小さく「ああ、人がゴミのようですね」と呟いたのはきっとアニメの影響なのだろうと信じたい。
そして帰宅。
一度店に行って何か飯でも作ろうかと中を覗くと、閉店後の店の中で親父が。
土下座していた。
優子さんに。
「すまない優ちゃん、俺……騙されそうになってたんだ!」
「もういいですよ。何も、なかったのでしょう?」
「それは誓って。でも、結構なものを買ってしまったし、それに……」
「大丈夫です。なんかその女性も捕まったようですし何も心配いりませんよ」
何事かと焦ったが、渚は俺の手を引いて「大人の世界に子供が割り込むのはよくありませんよ」と諭してくる。
そして気になる気持ちをグッと堪えて、俺はそのまま引き返して部屋に戻った。
もしかして親父のやつ、浮気でもしたのか?
いや、あのカタブツに限ってそんなことはないと信じたいが……
「なあ渚、親父のことだけど」
と言いかけた時、渚は俺の目の前にその綺麗な顔を近づけてから一言。
「渚は何も知りません」
この話にオチなんてものはない。
その後親父と優子さんはいつもの調子だったし、渚は何も知らない様子でいつものように俺にくっついてくるだけ。
俺は何も知らないまま、ただひたすら何かに守られて成り立つこの日常を、ゆっくりとかみしめるように味わう。
知らぬが仏。
というが俺の場合は、人生字を識るは憂患の始めなんて表現の方が正しいのかも。
無知、無学である方がいくらか気楽だ。
だからそれでいいと、やがて考えることをやめた。
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