手段その32 心の隙間に
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「渚。こっちにこい、帰るぞ」
「お兄様……いいえ、私はこの女を許すわけには」
「許す許さないじゃない。俺のために渚が手を汚すことはないって言ってるんだ」
この状況を見れば、渚と佐々木さんが今どんな状況なのかはすぐにわかった。
つまり渚は目の前の腰を抜かした女性を殺そうとしていた。
しかも俺のために……
偶然ここに彼女がいてくれてよかった。
それだけが救いだったが、しかし後は渚をどう説得するかだけど……
「お兄様、私はお兄様の為なら死んでも後悔はありません」
「いや、それは俺が後悔するからやめてくれ。ええと、なんだ、その、俺がお前に居なくなってもらいたくないんだよ」
「……それは、家族として、ですか?」
渚は真剣な表情で問う。
ただ、こんな状況で生半可な答えは許されないだろう。
それに、俺の本心は……。
「女の子として、大事な人として、渚がいなきゃ困るんだよ」
「……本当、ですか?」
「ああ。だから帰ろう。そんな女のせいで渚が犯罪者になる必要はない」
「……わかりました。では、帰りましょう」
言ってしまった。
もう、告白みたいなことを渚に伝えてしまった。
でも、それが本心なのだからどうしようもない。
いなくなれば楽だとか、むしろ邪魔だと思っていた時もあったし今もそんな気持ちがないとは言い切れない。
それでも、二人でいる時の安心感や渚が嬉しそうにしてるのを見て和むひと時のことを考えると、やっぱりこいつを切り離すことはできない。
渚がいなきゃ、嫌なんだ。
失神する佐々木さんのことにまで構う余裕は俺にはなかったが、その変わり果てた姿を見て、少しだけ彼女と過ごした思い出を振り返った。
……多分、初恋みたいなものだったのだろう。
でも、それは幻想にすぎないことだったのだと理解し、複雑な気分になる。
所詮人は自分が一番大事で、そのために他人を蹴落とそうとする連中ばかりなんだ。
佐々木さんも、そういうありふれた連中の一人にすぎなかった、というだけの話。
「お兄様、お兄様」
「ん?」
「顔色が良くないですよ。大丈夫ですか?」
「え、いやまあちょっと走って疲れたのかな」
「でも、よくこの場所がおわかりになりましたね」
「なんとなく、だけど渚がいる気がしたんだ」
「まあ。すごくロマンチックです。素敵」
「はは……」
こんな危機一髪なロマンチックがあってたまるかと、そんな冗談を思い浮かべたところでフッと俺の意識は途絶えた。
◇
「……ん」
「お兄様、よかった目が覚めたのですね」
「あれ、ここは」
気が付いたら部屋の布団に寝ていた。
どういうわけかと体を起こそうとするが体が重い。
「お兄様、急に意識を失われて心配だったのですよ」
「あ、ああ。気絶してたのか。渚がここまで?」
「ええ、タクシーを呼んで。でも、無事でよかった」
さっき走り回った疲労か、それともこれまでの心労かはたまたその両方か。
とにかく俺は意識を失ってしまっていたようだ。
「渚、佐々木さんはどうなった?」
「警察に通報しました。もちろん匿名で」
「そうか。でも、頼むから無茶はしないでくれ。お前に何かあったら」
「お兄様……こんな時にも私の心配をしてくださるなんて、渚は嬉しいです」
まだぼんやりとする中で、渚が俺にキスをした。
そして一気に意識がはっきりしたのだが、体が重いせいもあってか、今は抵抗しなかった。
「……渚」
「お兄様、愛しています。これまでもこれからも」
「ああ、俺も渚がいなきゃダメみたいだ。一緒にいよう」
「はい、お兄様」
きっと疲れていたからこんな風に渚に身を寄せた、なんて言ってしまうと彼女に失礼だけど、きっと弱っている時に優しくされると人間は簡単に堕ちてしまうものなのだろう。
あんなに怖くて必死で抵抗していた渚に対して、今はこのままでいたいとすら思ってしまう。
これがいばらの道とわかっていても……
◇
「おはようございますお兄様。お身体はどうですか?」
「おはよう渚。もう大丈夫、渚のおかげだ」
昨日の佐々木さんの一件は、まるで何事もなかったかのように終息した。
俺が寝ている間に親父にうまく説明してくれていたようで、親父からも何事も無くて良かったとだけメッセージが入っていた。
佐々木さんはどうなったかというと、警察に保護された後もずっと壊れたように「ごめんなさい、ごめんなさい」とだけうわ言を呟いているのだと、風の噂で聞いた。
渚がしようとしたことは一歩間違えれば、いや既に犯罪に近いことをしたのかもしれないけどそれは俺が頼りないからに限る。
あの時渚に任せようなんて少しでも思ってしまった俺の弱い心がそうさせたのだ。
だから今度は俺が、渚を更生させて守ってやる番だ。
「渚、持ってる凶器を出せ」
「え、スタンガンのことですか?」
「それにナイフとかも。護身用にしても危なすぎる。そんなものは捨てろ」
「でも、それではお兄様に何かあった時」
「じゃあそれは俺がもつ。だからお前は何も装備するな。あと、俺は……ええと、そうだ、渚のこと以外興味ないから、他の奴に嫉妬して攻撃するな。わかったか」
「お兄様……それは渚の事を愛していると、そうおっしゃるのですか?」
「……」
昨日、それっぽいことは言ったけどまだはっきりと渚が好きだと、愛していると言ったわけではない。
多分、引き返すのなら今だ。
今しかないのだろうけど、俺はそんな道を、振り返ることはなかった。
「愛してるよ、渚」
告げると、渚はドッと涙を流してうずくまった。
そしてしばらく泣いた後、「嬉しい、ずっとおそばにいます」と俺にすがってきた彼女は、ずっとそばを離れなかった。
静かな部屋の中で彼女の息遣いだけを感じながら、そんな彼女をそっと抱きしめた。
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