ココアシガレット

夏目有紗

ココアシガレット


「ふぅん、また仕事辞めたの」

 隣で男の声がする。36歳独身にしては綺麗な顔。職業、詐欺師。

「五月蝿い」

 ちょうど10歳下の私はベランダの手すりに顔を埋める。職業、無し。つまりニート。

 彼と出会ったのは私が中学生くらいの頃だ。当時から私の親は仲が悪かった。朝、両親の揉める声で目が覚めることも珍しくなかった。夜に揉めると最悪だ。八つ当たりで父親が私を殴ったり、母親は夕飯を出さずに私を部屋に閉じ込めた。二人の怒鳴り声は近所によく響き、小学校に行くとクスクス笑いが聞こえて静かな時間が無い。結果、SNSに閉じこもり、何も知らない人と話して友達沢山いる気分に浸っていた。

 その日も学校から帰ってくると怒鳴り声が玄関から聞こえていた。私はしばし立ち尽くすとそっと制服のまま、ふらりと足を外へ向けた。あてなんてない。ただ俯いて、人がいない方へ。

 近所の公園まで来ると、無性にブランコに乗りたくなり、左右の鎖を掴むと座席に立ち、思いっきり漕いだ。昔、近所の男子が言っていたことを思い出す。

『ブランコ、漕ぎまくって一回転させたんだぜ』

 ぐんっと勢いをつける。地面から90度くらい離れそうになったところで急に怖くなり腕を内側に曲げて失速させてしまう。それからゆっくりと漕いだ。時間はもう夜に近いからか、誰もいない。月は雲に隠されていて蝿が飛び回る街灯だけが公園を照らしている。いつまで漕げば良いんだろ。

 ふと見ると汚らしい格好のお爺さんがこちらに向かって近づいてきた。浮浪者。目が血走っていて背筋が凍りそうになる。嫌だ、怖い、逃げなきゃ。慌ててブランコから降りるが、どんどんと近づいてくる異様な雰囲気の男性に足がすくんで動けない。

「早く帰るぞ」

 不意に若い男性の声がした。スーツをきっちり着こなした、真面目そうな人がそばにいた。男性の姿を見ると老人は足を止め、それから背を向けて夜の闇へと消えて行く。

「ありがとうございます……」

 仕事帰りなのだろうか。小さくお礼を言うと彼は手を出した。

「ん」

 手を繋げ、ということだろうか。私はおずおずと手を差し出すと彼はふんっと鼻を鳴らした。

「ちげぇよ、金」

 つまりは助けたんだから金を払えと言うことらしい。戸惑いながらも私は財布を鞄から取り出した。小学生の時に友達から貰った折り畳み式の財布。子供向けデザインのそれから500円玉を取り出す。

「お前、女子高生だろ、それだけしかねぇのか」

「ありませんけど……」

「しけてんなぁ」

 端金なんていらねぇと言って彼は歩き出す。私は俯きながら再びブランコに乗る。

「帰らねぇのか」

「……もう少ししたら」

 彼はくしゃくしゃと髪をかく。それから呟いた。

「1日1万円だ。出世払いで良い。とりあえず来い」


 その日から私は家から何となく不穏な雰囲気がすると彼のアパートに転がり込むようになった。初めの頃はベランダでタバコをスパスパ吸ってた彼だが、「体に良くないよ」と繰り返した私の言葉を受けてか、いつの間にやら吸う姿は見なくなっていった。ある日私は「タバコ辞めたの?」と訊いた。彼は答えた。「お前が大人になるまで待とうと思ってねぇ」私が26になった今も彼は吸わない。

 彼の家は昔から楽だった。何をしても良い。私の存在があろうと無かろうと静かで、たまに彼が電話する声がそこにあるだけ。その電話がオレオレ詐欺の電話だと気づくにはそう時間もかからなかった。なんで詐欺をするようになったか、なんて聞かなかった。私はその詐欺師のお金で布団を買ってもらい、夕飯を食べて、お小遣いまで貰っていたから。私も共犯みたいなもの。もっとも、あくまで借金とされたけど。1日1万円。仕事できるようになったら返すこと。

 ある日、オフ会に誘われた。友達と遊んだ回数もほとんど無い私にとっては飛び上がりそうなほど嬉しかった。同時に、怖い目に遭うのでは、と思った。楽しいことと危険は裏表。二の足を踏む私に彼は言った。「俺が着いて行くからいざとなったら全員騙してお前だけ連れて逃げてやる」その日、私はいろんな人と出会った。女装コスプレをする男性、ネットでは女性のふりをしていた男性、逆に男性のふりをしていた女性。帰りには友達が沢山できていた。彼のボディガード代、9000円が借金に加算された。


 私の家庭は何やかんや毎日のように揉めていたが、大学には行かせてもらえた。賢いわけではなかったから無名の大学だったが、大学生になれた、というだけで少し誇らしかった。バイトしてこれまでの借金を返そうとしたら彼は言った。「水商売だけはすんなよ、ロクな女にならねぇ」「水商売の女に騙されたの?」「うるせぇ」


 卒業して何とか正社員として仕事するも長くは続かなかった。世間には『当たり前』というものがあった。親は子供を愛し育て、子供は親に恩返しする。それを前提として話される世間話。親に仕送りはいくらしてるのか、初任給では親に何を買ったのか。私は言葉に詰まり、態度が悪いと責められるようになった。女が2回も転職していると正社員になるのは難しくなって、バイトの面接しか通らなくなった。


 好きな服を持って帰りな、と言われた。アパレル会社の倉庫整理。どうせ捨てるから、バイトが持って帰って構わないらしい。私は何枚か手に取る。

「へぇ、そんな服も着るんだ」

 少し驚いたような女性の声。社員の人。

「男友達に着せようと思って」

 脳裏には女性物の服を私よりも可愛く着こなす男の姿。オフ会ですっかり仲良くなって未だによく遊ぶ可愛い人。ゴスロリのような服、似合うだろうなぁ。

「うわぁ引くわ」

 私の想像は簡単に引き裂かれる。彼女は冷たい目をしていた。

「え、キモ、有り得ない」

「最近はそんな変なことじゃないですよ」

「いやいや、引くよ、そんな男キモいって」

 ガーンと耳鳴りがした。胸がミシミシ、と音を立てる。キモい、○○さんだって引くよ、と繰り返されるたびに胸が痛くなった。ごめん、という言葉が浮かんだ。ごめん、君の知らないところで君の悪口を言わせるキッカケを作ってしまった。ごめん、そんなつもりはなかった。違う、私は君のことを自慢したいくらいだったんだ。こんなふうに言われるなんて思わなくて。

「本当はあなたが着るんでしょう?」

「……そうですよ」

「ほらね!」

 彼女の目が輝いた。もう彼のことを悪く言わせるわけにはいかなかった。

「この子、ゴスロリとか着るんだってー!」

 大声で楽しそうに彼女は他の人に話しに行く。私は黙々と鞄に服を詰め込んでいく。口の中には唾液の苦い味。


 夜風を浴びながらアパートの手すりをぎゅっと掴む。不意に白くて短い棒を目の前に見せられた。

「……タバコ?」

 そういえば、私が大人になるまで吸わない、と彼は言っていた。一緒に吸おう、ということか。

「バァカ、誰が餓鬼にタバコなんか勧めるかよ」

「私、もう26だし」

「下着の上下も揃えないような大人の女性がいるかよ」

「見んなバカ」

「下着を床に放置すんな餓鬼」

 むぅ、と眉をひそめていると彼は外を眺めながら言う。

「ショコラシガレット。お菓子だ。一箱31円な」

「ケチ」

「借金、残り342万9031円」

「100万円も盛るな、この下手くそ詐欺師が」

 軽口を叩き合いながら、彼の手から一本ココアシガレットを手に取る。タバコのように咥えてみたくなり、真ん中あたりを歯で挟み、半分から先を口の外に出す。舌で撫でるとハッカがスースーと口の中を涼しくしていく。夜風が頬を撫でた。彼も同じようにココアシガレットを口に入れている。静かな夜。公園ではキーキーと音を立ててブランコが小さく揺れ、月は雲に隠されて、街灯の周りでは蝿がぶんぶんと飛び回っている。

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