海辺の二人
涼月
海とアイスと
彼がたった今冷凍庫から取り出したばかりのアイスを手に、ベランダへの窓を開けると優しい潮風がそっと頬を撫でた。几帳面に並べられた二足のサンダルの、大きい方に足を入れて彼は柵に寄りかかる。窓は空気の入れ替えも兼ねて開けたままだ――この前虫よけのネットを吊るしたから、そこは心配しなくてもいい。
彼は白い刷毛でひと思いに塗ったような雲をぼんやりと眺めながら、ぺりぺりとアイスの箱を開けた。赤いパッケージが目印の、六つ入りのあれだ。付属のピックで適当に一つ刺して、口に含む。子供の頃から変わらない懐かしい甘さが口内に広がった。たった百円ほどのこのアイスが、どうにも特別に思えるのはきっと、六つという絶妙な数のせいだろう。時々こうして無性に食べたくなる時がある。
ベランダからは海が見える。特に有名な浜辺があるわけでもなく、近所のサーファーや子供が訪れるくらいのものだが、それでも海は綺麗に見えるのだ。特に、夏のこの夕暮れの時間には。
向かって右手の方では、太陽の沈んだ名残が空を覆っている。はっとするようなオレンジ色が塗りこめていて、海沿いの道を行く人の影をこれでもかというほど引き延ばす。遠目に見える家族の楽しげな声が聞こえた気がして、彼は目を細めた。
反対側の空にはもう夜の帳が降りようとしていた。濃い紫が徐々に空を染めゆく。真っ白な雲を塗りつぶしてしまいそうなほどに。
――オレンジと紫は正反対な色のはずなのに、混ざり合ったところは何故か人を魅了する。言葉では言い表せない色合いが空を支配するこの時間、彼はいつも、思惟に耽ってしまうのだ。
口の中からすっかりアイスが消えた頃、不意に玄関の鍵が回る音がして彼は我に返った。ただいまーと鈴の転がるような声が背後に聞こえる。ベランダから部屋の壁掛け時計を見やると、確かに彼女の帰ってくる頃合いだ。
靡いたカーテンの隙間から彼女がかばんを置いてこちらへやって来るのが見える。彼は少しだけ右に寄ると、彼女の立つスペースを作った。
「ただいま」
「おかえり」
隣に彼女が柵に凭れると、風がその髪を掬った。色素の薄い、細い髪がさらさらと舞って微かに甘い香りがする。少し伏せた睫毛が夕焼けに透けて、儚い。触れれば消えてしまいそうな危うい美しさを秘めた彼女の横顔に、彼は思わず目を奪われる。――もう付き合い始めて五年にもなるというのに、まだまだ知らない彼女がいるようだ。
「ねえ、一粒食べていい?」
ふと声を掛けた彼女は、見惚れた彼をからかうように目を眇めて言った。
「うん」
「ありがと。……汗、かいちゃってるね」
「そうだね、冷凍庫から出して結構経つから」
コーティングしたチョコについた水滴を汗に喩える彼女はどこか幼い。出会った当初はその言葉選びに戸惑ったこともあるが、今はもうお手の物だ。
彼女に倣って彼ももう一粒口に入れると、半ば溶けかけたそれがすうっと口の中に消えてチョコの風味だけが残る。ねだるように僅かに見上げた彼女に箱を差し出して、二人は丁度同じだけ食べた。
風に吹かれて最後のひとかけらを飲み込み、隣を見るとふと焦げ茶色の瞳と目が合った。もうほとんど沈んだ太陽の光を浴びて瞬く。
彼は引き寄せられるように顔を近づけると、そっと唇を重ねた。
体を離すと、どちらからともなく笑い声が洩れた。くすくすと笑い合って、その間に何度かキスを交わす。しばらくの後、二人の腹が空腹を告げた。きゅるきゅるといささか間抜けな音が響く。
「晩御飯、何にしようか」
「君のカレーが食べたいな」
「でもじゃがいも昨日で無くなっちゃった」
「買いに行けばいいよ」
「それじゃ遅くなっちゃう」
「それでもいいよ」
「じゃあ手伝ってくれる?」
「当たり前だよ、僕がそうしなかったことがあった?」
「それはどうだか。この前手伝うって言ったのに昼寝して起きなかったのはどこの誰だっけ」
「……次の日の朝御飯で勘弁してくれたんじゃなかったの」
他愛ない言い合いをして、彼がわざとらしく顔を顰めると、彼女はさあねと笑った。一足先に部屋に戻った彼女のスカートが、名残惜しげに揺れる。
彼はそれを追いかけると、一度だけ海を振り返って窓を閉めた。
海辺の二人 涼月 @R_moon
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