第26話

「怪我をされた方は!?」


其処へ到着した救急隊員にスーツを脱がせて貰い、背中を露わにした。右の僧帽筋から左の広背筋にかけて、斜めに切られている。思わず智風は息を飲み泣きそうな顔をすると、たいした事無いから、と匠馬は心配させまいとしてか優しく笑う。


「このまま、病院に行きますか?」


という問いかけに、匠馬は首を横に振り


「ここでは応急処置しか出来ませんよ?」


出血からして酷いのかもしれないのに、ここでお願いします、と匠馬は運ばれるのを拒否。救急隊員も顔を見合わせ、少し話し合いをすると処置を開始した。消毒をされる際、痛みで思わず匠馬が智風の手をキュッと握り、智風は慌てて両手で匠馬の手を包み込む。


「化膿する可能性もありますので、明日、必ず病院に掛かられて下さい。左腕側は少し深く切れていますから、治るまで時間が掛かると思います。それと、……深さ的に、痕が残るかもしれません」


その言葉に智風はどうしていいか分からず、声を殺して涙を流がす事しか出来ずにいる。


「ちー、泣かないで。切られたここが痛いの?すいません、彼女の手当てもお願いします」


2人のやり取りに救急隊員も苦笑いを浮かべながら、智風の手と顔を治療し、匠馬は包帯で胸を巻かれ終わると、ボロボロになってしまったスーツを羽織り立ち上がった。すると


「匠馬!ちーちゃん!」


美弥子が駆けて来たのだが、匠馬を見つけ一目散に駆け寄って来て彼の頬を引っ叩いた。


「この、莫迦息子!ちーちゃんに危害が及ばない為に私達と距離を置かせたんじゃないの!?なのに、何んでこんな事になるの!」


怒鳴るだけ怒鳴り、美弥子は智風を抱きしめる。


「怖かったでしょ?ごめんなさいね、ちーちゃん」


「お、お母さん?え?お母さんはあたしの事、嫌ってるんじゃ…」


「そんな事ある訳、無いじゃない!私の娘はちーちゃんだけなのに!」


「だって、家に頻繁に行くのが迷惑だって…」


「違うの、それはちーちゃんじゃないのよ…、ホントよ、」


ウルウルと瞳に涙を溜めて、美弥子は叩かれて赤くなっている智風の頬に触れた。すると、先程まで静かだった明美が血相を変えて声を荒げ、驚きの余り美弥子は智風を抱きしめる。


「お母さん!どうして私じゃないの!?その女が何をしたか知ってるんです!?」


「それは貴女でしょ!ちーちゃんに近づいて!匠馬との仲を裂こうとしたんじゃない!私を“お母さん”って呼んでいいのはちーちゃんだけよ!勝手に人の家に上り込んで!不法侵入もいいところだわ!」


キッと美弥子に睨まれ、明美は『私の方が匠馬の事を』と泣き始めた。すると、パトカーが近くで停まり、2人の警官が降りてきた。降りてきた警官達にひまわりが、こっちや、と声を掛けると警官に明美を引き渡し


「スーツ着とる奴が、この包丁で切り付けられた。多分、あの彼女の手もこれで切られたやろう」


匠馬と智風を指差した。


「あの、貴女は…」


「大河原家のボディーガードしとる波瀬辺、言うモンや」


その答えに慌てて警官2人は背筋を伸ばし、敬礼をする。


「「失礼しました!」」


「傷害罪の現行犯で逮捕…、もしかして、この放火もお前か!?」


声を荒げた警官に


「違うわ!放火は、あの女よ!あの女の部屋の隣から出火してるんだから!」


明美も負けじと声を荒げ、智風を指差した。すると


「証拠がここにありますので、警察の方と一緒にご覧になりますか?放火犯でもある波津久明美さん」


眼鏡を掛けた長身の男性が現れ、一斉にそちらの方に視線をやれば


「こりゃまたえらい奴を召喚してきたもんやなぁ」


ひまわりは出て来た人物に心当たりがあるのか、面白そうに笑う。暗視スコープタイプのビデオカメラを持った眼鏡の男性は、SDカードを抜き取り長い指に挟んだ。きゃぁ、と女性達が黄色い歓声が聞こえてきそうな程、一つ一つの動作が格好良い。


「私わたくし、調査会社を経営しております、滝本と申します」


何時の間にかSDカードの下に名刺が添えられており、警官は少し驚いた顔をした。


「スーツの彼、鮎川匠馬さんから依頼を受けまして、2月より彼女を調査していたんです」


「依頼、ですか?」


「えぇ…ストーカー行為です。その女性、波津久さんによる必要以上のつきまとい・待ち伏せ・面会・交際の要求に困っていらっしゃいまして」


「では、ストーカー被害も出されますか?」


「はい。お願いします。それと、先日のジュエリーショップの放火ボヤの件ですが、もしかすると彼女の仕業かもしれません。現場は押さえられませんでしたが、その場から逃げ去る彼女を捉えてますので、ご覧ください。後、放火の遭った時間に通りかかったタクシーに乗り、屋嘉比さんの住むアパート近くの公園で降りた証言が取れています」


「ご協力ありがとうございます。では、署で詳しいお話を」


「あ、彼等はまだ未成年ですので、日が昇ってからでもかまいませんか?今日の処は私が代理人として伺いますので」


「そう…ですね、では、被害に遭われた…、鮎川さんと、やかびさん、で宜しいですか?おふたりは、昼ごろまでにご自宅に迎えに伺いますのでお願いします。波瀬辺さんは今から署までご足労願えますか」


「あぁ。分かった」


「では、鮎川さん、ストーカー・傷害・不法侵入の被害届を出される方向で警察ともお話させて貰い、手続きもスムーズに行く様にしておきます」


それだけ言って匠馬の横を通り過ぎて行く滝本。彼が心底楽しそうな顔をしていたのは、匠馬しか知らない事だが。


警官と滝本・ひまわりがその場を去ると、野次馬の殆どはけていた。消火も殆ど済み広範囲で引かれていた規制線が取り除かれ、建物の周りに規制線が引き直されていった。「ちー、大丈夫?」


その言葉に智風は、意味が分からない、と呟いた。すると、美弥子が声を荒立てた。


「どういう事!?ちーちゃんに納得して貰ってアパートに帰したんじゃないの!?」


「してない…。ちーに余計な心配させたくなくって…」


「…心配?…あたしとタクマは付き合っても無いじゃない!何を心配する事があるのよ!」


キッと涙目で睨まれて匠馬だけでなく、美弥子、そこに居た警官まで声を発した。


「「「え?」」」


警官も今の状態を見ていて匠馬と智風が付き合っているのだと思っていたようだ。


「い、今迄の事見てて、君は、まだ、ボクと付き合って無いっていうの!?」


「は!?意味わかんない!付き合うって、”好き”って言われて、告白されて、ОKしてからの話でしょ!?あたし達そんな事してない!タクマに“好き”って言われた事、無いから!」


その言葉に周りの視線が匠馬に集中する。


「そ、そんな…、だって、ボク、目茶苦茶、ちーに尽くして来たのに…」


「「言葉に出さないと分かりません」」


美弥子と智風の声が上手い事ハモり、匠馬は片手で顔を隠す。


「そうね、説明の前に、匠馬の告白が聞きたいわ」


「あ、それ、いいですね」


「うちも聞いときたいわ」


「何で2人がいんの!ひまは早く警察行って!陵!そのビデオカメラ何なの!」


「「まぁ、まぁ、気にしない」」


「気にするよ!」


「ったく、ケツの穴が小さい子ね。男が小さい事気にしないの。どうせ渡すモノがあるんでしょ?」


ぽん、と美弥子は智風の背を押し、匠馬に押し付ける。匠馬は、あぁもう、と大きくため息を吐き、意を決したか真剣な眼差しで智風を見下ろした。…が怒りをこらえるように智風は涙目で睨んでいた。


「何で、みんな知ってて、あたしだけ何も知らされてないの?そんなに足手まとい?明美さんの事も、知ってたんでしょ?あたしがどれだけ、苦しかったか、…っ、匠馬の事、好きでいたら悪いって、思って、」


堪らず涙を零す智風を抱きしめ、ごめんね、と何度も謝る。


「本当は2人っきりの時に言いたかったんだけど、聞いてくれる?」


智風の涙を拭いながら、匠馬はにっこりと笑う。


「明美さんは母さんの塾の生徒だったんだ。挨拶する程度の関係だったのに、中2の頃から彼女に付き纏われる様になって。何時の間にか、自分が“彼女”って勘違いし始めたんだ。何度、ボクに感情が無い事を伝えても、彼女は理解してくれなくてね。入学式の日、ボクがちーに声掛けたの覚えてる?実はね、あの時からずっとちーの事がきになってて。その年の12月に体調悪くて保健室で寝てる君を見て、一目惚れしたんだよ。どうしても話す切っ掛けが欲しくって、2年で同じクラスになれたから先生にプリントとノートを運んでもらう仕事を頼んで。それくらい必死だったんだよ?多分、明美さんはボクがちーに必死なのが分かっていたんだと思う。だから、彼女はちーに近づいてボク等の仲を裂こうとしたんだ。君から彼女の名前を聞いた時に最悪の事態を考えて、さっきの調査会社の人、滝本さんに明美さんの行動を見張って貰う様に頼んで…。君に明美さんの事を伝えるか、迷ったんだけど、彼女と会った日は凄い楽しそうにしてるの見てたら、言い出せなくなって。こんな事になるなら、ちゃんと言っておけば良かったって後悔してる。本当に、ごめん。…そのね、気持ちの表現は上手いけど、多分、これからも言葉に出す事は少ないと思う。そのせいで不安に思わせる事があるかもしれないし、嫌な思いをさせるかもしれないけど、皆の前で一生涯の愛を誓います。だから、これからの人生、ボクの側に居てくれませんか?」


匠馬はズボンのポケットから出した箱を開けると、年代物のオパールの指輪が顔を覗かせた。


「創業者の曽祖父の代からのモノなんだ。デザインが古かったから、作り変えててね。どうしても、ちーの誕生日に渡したかったんだ」


「だから、大事な話があるって…」


「うん。それと、ボクが慌てて取り上げたスケッチブック覚えてる?ちーが見てたページの次にこの指輪のデザイン描いてて、見られたかと思って心臓、止まるかと思った」


「で、でも、明美さんが匠馬に貰ったっていう指輪もそれの1番最初に描いてた…」


「あぁ、あれはね、うちの看板商品で昔からあるヤツ。デザインの練習で何度も描いてる物だし、誰でも買える代物だよ。値段もさほど高くも無いしね」


「ごめんなさい、あたし…っ」


「ちーは何も悪くないよ。だから、受け取ってね。ま、受け取ったら返品は一生出来ないけど。着けていい?」


「う…うん…」


自信の無さそうな返事に、くすり、と笑って匠馬は智風の薬指にオパールの指輪を填める。サイズがぴったり過ぎて驚いてしまう。


「あたしで、いいの?」


「君がいい。初めての時も言ったでしょ?あの時から、ボクの気持ちは何も変わってないよ。だから、ボクと結婚して下さい」


智風は小さく、はい、と返事を返した。流石に抱き付く訳にはいかずに、スーツを掴む。


「あ、…まだ、聞きたい事があるの。ね、どうして、荷物全部持って返ってしまったの?マグカップも…。それに、歯ブラシだって捨てて行って…」


「え?荷物って…、あれは冬物と春物だったから夏物に替えようと思って持って帰ってたし、マグカップはヒビが入ってたでしょ?だから新しいの買おうと思って持って帰って、歯ブラシは…」


「歯ブラシは?」


「寝ぼけてて、歯磨き粉と間違えてちーの洗顔フォーム付けちゃって。流石に洗ったけど、何か使うの嫌だったから仕方なく捨てたんだけど…歯ブラシがどうかしたの?」


意味があって捨てられていたのだ。理由が分かれば、安堵するもので。


あぁ、何だ、そういう事か。悩んでいても仕方なかったのか。


「あたしね、タクマのそんな間の抜けた処、好きよ」


智風は匠馬を見上げて涙を拭きながら笑った。

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