第25話

※暴力・犯罪表現があります。


ピンポーン。


「…ん、…あ、今、何時?」


泣きすぎて眠ってしまっていた智風は、その音に慌てて躰を起こした。時計を見れば11時を少し過ぎた処。


本当に来たんだ、と思わずため息が出る。しかし、曖昧なままでいい訳が無い。美弥子から貰ったシュシュで髪を纏め、恐る恐る玄関に向かっていく。


どんな切り出し方をされるのか。


泣かずに話が聞けるのか。


最後は笑顔で別れが出来るのか。


ぎゅっと目を瞑って一呼吸置く。


そして、ゆっくりと玄関を開けた。


「…、え?」


が、そこに居たのは匠馬では無く、…明美。何故彼女が玄関前に立っているのか理解出来ず、智風は瞬きを繰り返した。


「あ、明美さん?」


「……」


声を掛けても明美は反応せず、ただ下を向いているだけ。何時もと様子が違う彼女にどのように接してよいか分からず、智風はオロオロとするしかなかった。


しかし、何故明美が自分のアパートを知っているのか、と疑問が浮かぶが、場所を教えた記憶も無い。必ず公園で別れていた。その上、彼女は逆方向に帰って行っていた。


もしかして、匠馬と2人で結婚の報告でもしにきたのだろうか。


そんな事も思いもしたが、それは違う、という事を知る。明美の手には…包丁が握られている。


“キケン”ーーー警告音が頭の中に鳴り響く。


慌てて玄関を閉めようと手を伸ばせば、明美の手の方が早く動き、しゅっと音を立てて智風の手を擦った。擦った程度ではあったが甲からは血が滲み、恐怖で玄関ノブから手を放してしまい、ゆっくりと2〜3歩後ずさると、智風は奥の部屋に逃げ込んだ。


その時、つい最近、ひまわりと交わした言葉を思い出し、智風は後悔する。簡単な護身術を教えてくれる、と言うのに断ったのだ。だが、『これだけは覚えとき。玄関を開ける時、必ず覘き穴で見てドア越しで対応する事。もし、開けてしまった時は部屋の中に逃げ込まんで、外に逃げぇ。後は大声で叫び。迷惑、とか考えとらんで助けを求めるんや』とアドバイスをくれていたのに。なんて馬鹿なのだろうか、と自分に情けなくなってくる。


コトン、コトン…、と乾いた音だけが部屋を木霊し、智風は慌てて顔を上げた。包丁で壁を刺しながら、明美はゆっくりと部屋の中を見て回る。


「ね、智風ちゃん、私、匠馬と結婚するって言ってたよね?」


何時もの笑顔を向けて明美は振り返った。そして、ゆっくりと部屋の中を見渡し、首を傾げる。


「いきなり現れ出て、匠馬を誘惑して。私が何で智風ちゃんに近づいたか分かって無いでしょ?ずっと私が話しの節々に匠馬の事入れても一向に気づかないし。本当に鈍感で困ったわ。話しの途中で気付いてくれたらこんな事しなくて済んだのに、ねぇ?」


寝室のドアを開け、ベッドに近寄って行くと持っていた包丁でザクッ…ザクッ…、と布団を切り刻み始めた。


「何度、このベッドで匠馬に抱かれたのかしら」


「や、やめて!そんな事、しないで!お父さんと、お母さんの思い出のベッドなの!」


「煩い!!!匠馬は私のよ!今朝も!公園でキスしてたの知ってるんだから!この、泥棒猫!」


「っ!!」


見られていた、と驚きの余り明美を凝視すれば、彼女は乱れた髪のまま振り返る。気付かなかったが、目は落ち窪み顔色は土色に近かい。自分のせいで彼女を追い詰めていたのか、と心が痛んだ。すると、明美がふらり、と智風の横を通り過ぎて行く。


「このマフラー…」


押し入れに仕舞う為に出していたマフラーと手袋を明美は手に取り、無言のまま包丁で切り刻み始めた。やめて、と声を出したいが、何かに憑りつかれた様に一心不乱に切り刻んで行く姿に身が竦む。


「私が欲しいって言ったマフラーなのに…。何で、こんな女に渡しちゃったの?一緒に買いに行ったのに…。私がどれ程匠馬の事好きか分かってるのかしら…。私は匠馬の事何でも知ってるのにね…。小学生の頃から知ってるのに…私がどれだけ愛しているかまだ分かってないのよ…。私だったら匠馬の望む事全部叶えてあげられるのに、してあげるのに…」


視点が定まってない明美は、ブツブツと独り言を呟く。


「ね、智風ちゃんもそう思うでしょ?」


急に顔を向けられて、智風はひっ、と息を飲んだ。


明美の手元には原型が何だったのかも分からなくなったマフラーと手袋の残骸。捨てられなかった自分が悪いのだろうか、と床に零れていく残骸を涙目で智風は見詰めていた。


「最後のチャンスあげたのに…。匠馬から離れないんだもの…。それは智風ちゃんのせいよね…。私から匠馬を奪おうとするんだもの…。匠馬は智風ちゃんの事好きでもなんでもないの。匠馬が好きなのは私だけなの。私がこんなに病んでしまったのは、智風ちゃんのせいよ…」


「ごごご、ご、ごめん、なさい、あ、あたし…、」


「ねぇ、匠馬に金輪際近づかないって誓える?」


「え…?」


「知らないとでも!?匠馬を呼び出して公園で無理やり匠馬にキスして!夜も来るように泣きついたの知ってるんだから!」


「ち、違います!それはタクマから話しがあるって!」


「煩い!!!」


怒鳴られたと同時、明美の手元にあった辞書が飛んできて咄嗟に頭を庇うと、二の腕に当たり辞書は床に重い音を立てて落ちた。


「黙って。…匠馬に電話して、“もうここには来ないで”って言いなさい」


携帯を握りしめて、明美が近寄って来る。般若の様な形相に、思わず智風は恐怖で歯をガチガチと鳴らす。


「しろって言ってんだろうが!」


男言葉に余計智風の躰は縮み上がる。すると、明美は力一杯智風の髪を掴み上げた。


「電話、しろ…。学校も辞めて匠馬の前から消えろ…。そうしたら命だけは助けてやる…」


今にも零れ落ちそうな程、目を見開く明美。震える手で携帯を掴むと、匠馬に助けを求めようと


「い、いや、っ、タクマ、助けてっ!おねがいっ、タクマっ!」


半ば、智風もパニックになっており、自分でも何を言っているか分かっていない。


「優しく言ってやったらつけあがりやがって!」


明美は智風を突き飛ばし、二つ折りの携帯を開くとバキッとへし折った。そして、お揃いのストラップを持っていた包丁の柄尻で叩きはじめた。ゴッ、ゴッ、と潰されて音とガラスの玉が飛び散って行く。


「…蛙の子は蛙、ね。母親と同じ事するんだから…」


「え…?」


「なんだ、知らなかったの?あんたの母親、婚約の決まっていた父親を誑し込んで破局させて、自分のモノにして。それで、勘当されてこの街を負い出されたのよ。血筋なのね、この最低な、クズ女!」


包丁で机を激しく叩くと今度は机をひっくり返した。


ガシャーーーン、っとけたたましい音を立ててライトが床にたたきつけられ、破片が散乱する。教科書や参考書なども一緒に床に散らばって行った。


「今すぐ!今すぐこの世から消えて!死んでよ!死んでしまえ!泥棒猫!」


その時。焦げた臭いの白い煙が部屋の中に流れ込んで来た。その煙に驚いていると明美に力一杯突き飛ばされてしまい、箪笥に頭と背中をぶつけ痛みの余り智風は床に倒れた。


「あ〜ぁ。アンタに犯罪者になって貰うつもりだったのに」


「…え?」


「放火魔として捕まって貰うつもりだった…。いいわ。もう、ここで死んでよ」


それだけ言い残すと、明美は部屋から飛び出して行った。部屋に残っていたら、煙を吸ってしまう。


軽い脳震盪を起こしたか。クラクラして中々立ち上がれない。


このまま死んでしまった方が良いのだろうか。そんな事を不意に考えてしまい、燃えていく部屋を眺めていた。


…いやだ、いやだ、こんな処で死にたくない。


鞭打って、よろよろと立ち上がると靴も履くのを忘れ、転がる様に外に這い出す。新鮮な空気を求める様に、必死で門を出た。


何事か、と近所の住民が出て来て騒いでいる中に智風はたどり着いたが、直ぐに両親の位牌を置いて来た事に気づいた。どうしよう、と迷っている暇は無く、智風がまたアパートに戻ろうと駆け出す。と


「智風!」


アパートの敷地内に入ろうとした処で長い腕に捕まり、目を見開いた。


「タクマ、放して!お父さんとお母さんの位牌!取りに行かなきゃ!」


「駄目だって!煙が半端無いから!危ない!」


「でも!」


智風が匠馬の方を振り返ると、すでに彼は走り出していた。門の近くでリレー方式で運ばれて来ていたバケツの水を横から取り上げ、頭から被ると、そこに路駐してあったスクーターのヘルメットを被り、煙の中に飛び込んで行く。


智風には何が起こったか理解出来ずに呆然と立ち尽くしていた。


パン、とけたたましい破裂音がすると火の勢いが増し、今迄白い煙だったのが黒煙になって天高く空へ昇って行く。音に驚き、匠馬が中に飛び込んで行った、と頭が理解した。


そこで、消防隊が到着し、消防隊員数名が消火の準備を始めた。匠馬が中に入って行ったことを知らせなくては、と慌てて消防隊員に駆け寄り


「出火場所は左奥から2番目です!それに、中に!男性がひとり飛び込んで行ったんです!」


助けて、と叫んでいた。パリン、とガラスが割れる音が何度もし、智風は息を飲む。


「中に入って行った男性の格好は!?わ、大丈夫ですか!?」


崩れ落ちそうな智風を支え消防隊員は、救急車の手配はまだか、と他の隊員に向かい声を荒げた。


漸く消火が本格的に始まり、中に匠馬が入って行った事を知らせる声があちらこちらでし始め、消防隊員のひとりが捜索に行く話が進んでいた。すると、ドン、と地響きの様な音が轟き、地響きと風圧でその場一帯が大きく揺れた。


それと同時。門の処からひとり、何かを抱えて走り出て来る。


「タクマ!」


智風は真っ白な頭で走り出していた。それに気づいた匠馬は数歩走ると、ヘルメットを脱ぎ智風の許へ走り寄る。後方で、無事が確認されました、と連絡がまた行く中、側まで寄った智風は力一杯、匠馬の頬を引っ叩いていた。ぱん、と良い音が響き、匠馬は目を大きく開いたまま固まった。


「何でこんな危ない事するの!?莫迦なんじゃないの!?」


「ご、ごめん…」


「どうして、こんな事するの!?怪我でもしたらどうするの!?もっと自分を大切にしてよ!タクマに、タクマに何か遭ったら、あたし、生きていけないじゃない!」


大粒の涙が、ぼろぼろと零れていく。


「ごめんね、ちー、ここじゃぁ、危ないから向こうに行こう」


手を引かれ、人ごみを抜け静かな所まで行くと匠馬は智風に位牌とアルバムを手渡した。


「位牌の位置は知ってたんだけど、アルバムが見当たらなくって。これ探してたら予想以上に時間が掛かっちゃって。…本当に心配させて、ごめん」


ぎゅっと抱きしめられて匠馬の体温が感じ、彼が生きている事を実感すると余計、涙が溢れ出る。自分の為に危険を顧みず、大切な物を取りに行ってくれた事に。


「タクマ、ごめんなさい、嬉しかったの、でも、でもねっ、もう、あたしの大切な人が、居なくなるのは嫌なの、」


「ごめんね、本当はもっと早く来るはずだったんだ。でも、ーーー危な、」


匠馬の言葉はそこで止まり、急に智風の躰が反転した。そして、聞こえた音と声に智風の涙が止まる。くっ、と息を飲んで匠馬が躰を預け、その重みに智風はよろめいた。


「な、何でそんな女庇うの!?匠馬は私のモノよ!離れて!」


ガタガタと震えながら涙を流し、目の前で明美が叫んでいた。何が起こったか理解は出来なかったが、匠馬を抱きしめ気づく。


ほのかに鉄の匂い。


明美が持っていた包丁で、背中を切りつけられた事を。智風の手がほんの少しだがヌルつき、顔面蒼白になりながらも、必死に匠馬を守ろうと抱きかいた。思いのほか深く切られたのか、匠馬の息が荒い。


「あんたさえ現れなかったら!」


包丁が高く掲げられ、智風は目をぎゅっと瞑った。だが、一向に痛みは襲って来ず、恐る恐る目を開けると明美がひまわりに腕を捻り上げられ、地べたにうつ伏せになっている。取り押さえられている、と言った方が正しいのか。


「容疑者確保、や」


安堵したようなひまわりの声に、匠馬がゆっくりと顔を上げた。


「もう少し、早く来てよ」


「こん、ボケ!ならもっと早う連絡入れぇ!智風、大丈夫か!?」


状況が飲み込めず、智風は匠馬とひまわりを交互に見遣った。

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