第15話 決着
「ブルガダだと...」
山本は栄一郎が言った診断名をオウム返しに聞き返した。
Brugada症候群とは、致死的不整脈である心室細動を発作的に起こす遺伝性疾患である。日本や東南アジアの男性に多い疾患であるが、女性でもみられる。非発作時の心電図では特徴的なBrugada型波形を示す。典型例としては、失神や意識消失を繰り返し、突然死の家族歴を持っている。一説には突然死の10%を占めるとも言われている。
栄一郎の推理はこうだ。
1.沙耶香の父親はBrugada症候群による心室細動で突然死した。
2.父親のBrugada症候群は沙耶香にも遺伝している。
3.救急外来での失神は、一過性の心室細動だった。
「山本君、すまないけれど、麻酔のメニューを変えさせてもらうわ」
岸野は山本にそう告げた。
「なんでだ?」
「プロポフォールは、ブルガダに禁忌になっているわけじゃないけど、ブルガダ型ST上昇と心室細動を起こすという報告があるの。ブルガダの患者に心室細動を誘発する可能性も少なからずありえる。今からミダゾラムに変更させてもらうわよ」
「いや、待て。手術はもう終わる。プロポフォールは終了して、あとはレミフェンタニルだけでもいいんじゃないか」
「それでも構わないわ。とにかくプロポフォールを止めるわよ」
岸野はそう言って、プロポフォールのシリンジポンプを止めた。
「山本、明日、朝一で循環器内科にコンサルトを」
「ええ、もちろんです。とにかく今は、この手術を早いところ終わらせます」
岸野、山本、川崎が口々にこの後の対応を話している。
「さすがに、この手術中に心室細動が起こるなんてことはないとは思いたいですが...」
山本のその発言に、栄一郎は心の中で反論した。
いや、起こります...必ず起こります...
栄一郎は死神の存在を確認した。依然、死神はそこに立っている。
そして栄一郎は次に、手術室の壁に設置された時計を見た。19:20。
あと5分...5分後に必ず心室細動が起こる...
栄一郎は手術部に入ったあとの記憶を辿る。アレは確か、手術部中央のスタッフステーションの出入口の脇に配置されていた。
もう時間がない...他の人間に説明して、取って来てもらってたら、間に合わない...
「間、視野がずれてるぞ」
山本が腹腔鏡の画面が術野の中心からずれていることを指摘する。
「山本先生...すみません!!」
栄一郎はそう言って、腹腔鏡から手を離し、手術室の出口に向かって走り出した。
「おい、間!どこ行くんだよ!?」
山本が呼び止めるが、栄一郎は意に介さず、手術室を飛び出した。そして手術部の廊下を走り、目的のモノが置いてある場所を目指す。
あった!!
栄一郎の記憶通り、それは、スタッフステーションの出入口の脇に配置されていた。
それは、モニターに複数のコードやダイヤルが付いた機器で、キャスター付きの専用の台に載っていった。
モニター付き除細動器である。
栄一郎はモニター付き除細動器を持って、元の手術室に走った。
栄一郎が手術室に戻った瞬間、異変が起きた。麻酔器に繋がったモニターが、けたたましいアラーム音を発し始めたのである。岸野が慌ててモニターを確認し、声を発した。
「心室細動!!」
栄一郎は岸野のその声を聞く前に、すでに除細動器の電源を入れていた。
やったのは、シミュレーターで1回だけ...実戦は始めてだ...でも...やるしかない!!
栄一郎は、除細動器のダイヤルやボタンを操作し、設定を合わせる。
二相性...200ジュール...非同期...間に合え!!
栄一郎は除細動器のパドルを両手に持ち、沙耶香の胸部に押し当てた。手元のボタンを操作し、除細動器を充電する。そして、放電の瞬間、栄一郎は死神を睨んでいた。
消えろぉっ!!
栄一郎は心の中で叫んだ。
同時に、どんっと鈍い音が響き、沙耶香の全身が跳ね上がった。
電気ショック後、栄一郎を除くその場の全員がモニターに注視し、栄一郎は死神のカウンターを注視していた。
電気ショックのコンマ数秒後、カウンターの数字は1から0に変わった。
だめなのか...
栄一郎は数字の変化に絶望する。
しかし、次の瞬間、モニターから心拍を表す電子音が聞こえ始める。
「洞調律復帰!!」
岸野がモニターを見ながらそう宣言する。
それを聞いて、栄一郎もモニターを確認した。確かに波形は、正常洞調律に戻っていた。栄一郎はもう一度、死神のカウンターを見る。次の瞬間、カウンターの数字は凄まじい勢いで動き始めた。
0.1.2.3...10...100...1000
数字の上昇とともに、死神は徐々に光の粒子に変わり、そして、消え去った。
その光景を見て、栄一郎は全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。
やった...
2日前の夜、栄一郎の人生初の当直から始まった死神との戦いは、この瞬間ようやく終わったのだった。
沙耶香の周りでは、岸野が頸動脈拍動を確認し、橋本が血圧を測定している。
「頸動脈触知良好!」
「血圧123/82!!心拍、完全に再開してます!」
その宣言でようやく、栄一郎以外の全員が安堵した。
「間!!」
へたり込んでいる栄一郎に、山本が怒気をはらんだ声を浴びせかけた。栄一郎は手術を途中で飛び出したのだ。栄一郎は今度こそ、たたき出されると覚悟した。
「なんだ!?今の除細動のやり方は!?除細動の前には安全確認と最終波形のチェック!!それから、除細動が終わったらすぐに胸骨圧迫だろうが!!お前、やっぱり、もう1回ICLS受け直せ!!」
思っていたのと全く違う山本の説教に、栄一郎は困惑した。
「で、お前もう、そのガウンは不潔だから、もう一回手洗いからやり直して、新しいのに着替えろ!!」
「え?俺、手術に戻っていいんですか?」
「当たり前だろ!!さすがの俺でも、腹腔鏡と鉗子2本を、1人で操作できるわけがないだろ!!」
そのやりとりを見て、川崎が割って入る。
「待て、山本!!間は...」
川崎はそこで言葉に詰まった。栄一郎が飛び出した瞬間は、今度こそ謹慎処分だと思っていたのだが、その後の目まぐるしい展開を目の当たりにした今、栄一郎の行動をどう解釈していいかわからなくなっていた。
「間は...なんです?」
山本はどこか痛快そうな顔をしていた。
「いや...なんでもない...もう、お前達の好きにしろ!」
川崎はそう言って、手術室を出ていった。栄一郎は自分の首もなんとか繋がったと安堵し、手洗いのために手術室を出た。その間に岸野と山本はあとの対応を協議した。
「問題はこのあとよ。またいつ心室細動が起こるかわからない。もう明日の朝なんて言ってられないわ。今から循環器の当直医を呼んで、術後はICUにいれるけど、いいわね?」
「ああ、頼む」
「橋本君、次に備えて、除細動器をパッドモードに。モードの切り替えとパッドの使い方はわかるわね?」
「はい、大丈夫です」
岸野は橋本にそう指示をだしたあと、循環器の当直医とICUの当直医に次々に連絡していく。
その後、手洗いから戻った栄一郎は再びガウンをきて、腹腔鏡を手にした。
十数分後、手術は無事終了したのだった。
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