第13話 手術開始

「んじゃ、こっちもぼちぼち始めますか」


 山本はそう言って手術室の端に置いてあったモニターを手術台の横にごろごろと持ってくる。その様子を見て、栄一郎は山本に聞いた。


「山本先生、もしかして腹腔鏡でやるんですか?」


「ん?ああ、そうだけど」


「穿孔してるし、開腹の方が確実で早いんじゃないですか?」


 腹腔鏡下手術は近年主流になっている手術方式で、腹部に小さい穴を数カ所開け、その穴に細長いカメラと細長い鉗子を使ってモニター越しに手術を行う術式である。一方、開腹術は昔からの術式で、文字通り腹部を開いて直視下に手術を行う。疾患や病状、患者の身体要因等にもよるが、一般的に腹腔鏡の方が手術時間が長いとされている。


「うわー、お前、嫁入り前の女の子の腹を迷わず掻っ捌こうなんてどんな神経してんだよ?できるだけ傷残さないほうがいいに決まってんだろ」


 腹腔鏡はその術式故、開腹に比べ圧倒的に傷が小さく目立ちにくい。また出血等の合併症が起こりにくいといったメリットもあり、今日、開腹術よりも腹腔鏡下手術のほうが圧倒的に主流なのである。栄一郎もそれは十分にわかっていた。しかし、今はとにかく時間がない。開腹術ならば、沙耶香の死亡予定時刻に間に合うかもしれないと思っていたのだが。


「また、お得意の勘か?」


「えーと...」


 栄一郎は言葉に詰まった。さすがに術式にまで口は出せない。もし余計なことを言って手術室からつまみ出されたら、それこそ本末転倒だ。


「ま、心配するな。腹腔鏡にはちょっと自信があるんでね」


 山本はそう言って作業を続けた。栄一郎も作業を手伝ったが、頭の中で昼間の山本の発言を思い返していた。


『ああ、わかってるよ、午前の俺の手術が1時間もおしたからだろ!?』


『うん、ああ、わかった、わかったよ!俺は、手術がノロマのヘボ外科医ですよ!これで満足か!』


 不安は尽きなかったが、もう山本以外に頼れるものがない。今は山本の腕を信じるしかないと考え、栄一郎は作業を続けた。

 手術台周辺の準備が整い、栄一郎と山本は手術室の脇で手洗いをしていた。ただの手洗いではない。外科手術のための手を完全に滅菌状態にする専門的な手洗いだ。手洗いが終わった後、二人は手に雑菌がつかないよう、手を宙に浮かせた状態で手術室に戻った。そして、看護師の介助の元、滅菌ガウンを身に着け、滅菌手袋をはめた。手術の身支度が終わった頃、手術室にある人物が現れた。


「状況は?」


 病棟医長の川崎であった。


「今から始まるところです。て、川崎先生なんでまたわざわざ手術室に?」


「教授と医局長から、しっかり見張っておくよう釘を刺されてね。問題人物が自分の予言通り患者を死なせてしまわないようにと」


 そう言って川崎は栄一郎を睨んだ。栄一郎は思わず目を反らした。


「ま、ご自由に」


 山本はそう言いながら、消毒液で術野を消毒していく。そして、術野周囲に滅菌の布をかけていく。準備は整った。そして、山本が手術前恒例の挨拶を始めた。


「えー、一条沙耶香さん、24歳女性、穿孔性虫垂炎、腹腔鏡下虫垂切除術です。術者、消化器外科山本です」


「助手、研修医間です」


「麻酔、麻酔科岸野です」


「麻酔助手、研修医橋本です」


「機械出し、オペ室鈴木です」


「外回り、オペ室佐藤です」


「宜しくお願いしまーす」


『お願いしまーす』


 手術前恒例の挨拶をして、手術はスタートした。時刻は19時を回っていた。

 山本がまず、臍部、下腹部正中、左下腹部に切開を加えた。そして、それぞれの切開部にポートを挿入する。ポートとは、鉗子やカメラを腹腔内に通すための通り道である。ポート挿入後、ポートを通して腹腔内にCO2ガスを注入する。こうすることで、腹腔内に手術をするためのスペースができるのである。そして、次に細長いカメラ、即ち腹腔鏡を挿入する。この腹腔鏡の操作は助手である栄一郎の役目である。栄一郎が腹腔鏡を挿入したところで、栄一郎達から患者を挟んで反対側に設置したモニターに、腹腔内の様子が映し出された。画面の上側には細い血管の浮き出た腹壁がみえ、下側にはもこもことした腸と大網と呼ばれる黄色い腹膜ヒダが渾然一体となって横たわっている。視野が確保できたあと、術者である山本が2本の細長い鉗子を挿入し、その先端が画面上に現れる。この鉗子とは、要はマジックハンドのようなもので、先端はピンセットのようになっており、手元のレバーを引くことで、鉗子の先端が閉じて、臓器や糸を掴むことができるのである。

 術者は腹膜鏡で映し出された画面を見ながら、鉗子を操作して手術を進めて行くのである。言うは易しだが、画面越しで距離感や方向感が掴みにくいため、満足に操作できるようになるまでそれなりの修練を要する。また、腹膜鏡の操作も、術者が処置をしやすいような視野を作らなければならないので、こちらもそう簡単なものではない。


「よし、じゃあ、頭側にローテートお願いします」


 山本がそう言うと、麻酔助手の橋本が手術台を操作して、患者の頭が水平より下になるよう傾けていく。虫垂は腹膜内の右下にあるが、そこに辿り着くには、他の大腸や小腸、大網をよけていかなければならない。そこで、体全体を頭側に傾けることで、重力で腸管と大網が頭側に寄るようにし、虫垂を同定しやすくするのである。

 山本は鉗子を操作し、腸管と大網をよけていく。


「え...」


 ごく当たり前の腹腔鏡下手術の光景なのだが、ある違和感に栄一郎の口から声が漏れた。


「昼間と全然違う...」


 午前の手術で麻酔助手として山本の手術に入っていた橋本もそんな声を漏らした。

 鉗子の動きが恐ろしくスムーズで早いのだ。

 栄一郎と橋本が驚いている間に、山本はすでに鉗子で穴の空いた虫垂を掴み上げていた。炎症のせいで虫垂は周囲の腸管や大網と一部癒着を起こしていたが、山本はするすると剥離してしいく。


「普段から、そのくらい本気でやりなさいよ」


 岸野が山本にそんなヤジを浴びせかける。


「日中の手術はだいたい学生がつく。解剖や病態、術式を説明しながらだとどうしても遅くなるんだよ。俺、手術は得意だけど、説明苦手だし」


 そんな言い訳をしながら、山本は虫垂周囲の癒着を剥離しきって、虫垂を完全にフリーの状態にしてしまった。


「山本の手術は早くて正確だよ」


 驚いている研修医達に川崎病棟医長が解説を始めた。


「この山本は、学会発表はしない、論文は書かない、研究もしない、専門医試験には落ちると、勉学がさっぱりの男だ。本来ならば、そんなヤツは地の果ての関連病院に飛ばされているところだが、教授が山本を手元に置いているのは、その手術の腕故だ。特に、腹腔鏡はうちの教室で最速だ。同じ手術を他の医者が開腹でやるよりも早いだろう。」


 栄一郎は心の中で歓喜した。


 これならば...このスピードならば...間に合う!


 そして、栄一郎は視線をモニターから、沙耶香の傍らに映した。そこにはやはりまだ死神が立っている。


 手術が完全に終わるまで消えないか...


 栄一郎は再びモニターに視線を戻した。

 時刻は19時10分を回っていた。


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