第12話 麻酔導入
CTでは、やはり虫垂は穿孔していた。栄一郎と山本は、全身管理に努め、ひたすら搬入の時刻を待った。その間、到着した沙耶香の母親に、山本が状況を説明し、改めて手術の同意を得た。そして、搬入時刻がきた。時刻は18時30分を回っていた。前の手術がおしたのだ。想定よりもさらに30分の遅れで、栄一郎は焦っていた。が、もはや、流れに身を任せるしかなかった。栄一郎と山本は術衣に着替え、手術室に入った。少し遅れて、沙耶香を乗せたベッドが到着した。
「痛みは大丈夫か?」
栄一郎が沙耶香にそう話かけた。
「うん、全く痛くないわけじゃないけど、痛み止めの点滴が入ってからだいぶ楽だよ」
沙耶香は笑顔でそう答えた。
ベッドは手術台の真横につけられた。
「一条さん、ご自分でこちらの台の上に移れますか?動くのが難しければ、数人で持ち上げて移します」
手術台の頭側に立っていた女性の麻酔科医が沙耶香にそう声をかけた。彼女が電話で山本とやり合っていた山本の同期の麻酔科医、岸野である。
「大丈夫です。自分で移れます」
沙耶香はそう言って、手術台の上に移った。岸野と岸野の下についている橋本が準備しておいたシリンジポンプを点滴に繋いでいく。
「腰麻は?」
山本が岸野に尋ねる。
「1分でも早くって言ったのはあんたでしょ。スピード重視で、静脈麻酔のみでいくわ」
岸野はうっとおしそうにそう答えた。
「一条さん、今から麻酔を開始します。まず最初に麻酔用の鎮痛剤から開始します」
岸野は沙耶香にそう告げたあと、シリンジポンプの傍らに立つ橋本に指示を出した。
「橋本君、レミフェンタニル開始。時間16」
「はい、レミフェンタニル、時間16、開始します」
橋本は薬剤の流量を設定し、開始ボタンを押した。
「一条さん、次に鎮静剤が始まります。だんだん眠くなってくるので、目を閉じてリラックスしていて下さい」
岸野はそう言って、麻酔器に繋がった酸素マスクを沙耶香の口元にあて、橋本に指示を出した。
「プロポフォール開始、時間55」
「プロポフォール、時間55、開始しました」
沙耶香は眠気を感じ、最後に栄一郎の方を見てこう言った。
「間、頼んだわよ」
「ああ、わかってるよ」
そんなやりとりを交わしたあと、沙耶香は目を閉じ、眠りについた。静かに沙耶香の眠りを見守る栄一郎の後で、術者は俺なんだけどな、と山本が不満そうな顔をしていた。
「橋本君、昨日課題にしたプロポフォール注入症候群、勉強してきた?」
鎮静剤が十分量に達するのを待ちながら、岸野は橋本に課題の確認をした。
「あ...」
「勉強してないわね?」
岸野は橋本をじろりと睨んだ。
「プロポフォール注入症候群、プロポフォールの高用量長時間投与中に、横紋筋融解、急性腎不全、高カリウム血症等を起こす致死的合併症です。注意すべき前駆症状として、乳酸アシドーシス、徐脈、Brugada型心電図変化等があります」
橋本にかわって、栄一郎がすらすらと答えた。
「そ、その通り...」
意外な人物からの解答に、岸野は驚いていた。
「間、お前、もしかして、頭いいのか?」
そのやりとりに山本も目を丸くする。
「いや、そいつ、地方大ですけど、国立を主席で出てますよ」
橋本が栄一郎の経歴を明かし、山本と岸野はさらに驚いた。
「お前、なんでマッチングうちになったんだよ?国立の主席だったら、都立とか日赤とか、有名市中病院いくらでも行けただろ?」
「元々、この辺が地元なんですよ。両親はもう父の実家に移ったので、今は一人暮らしですが」
山本の質問に栄一郎はそう言ってお茶を濁した。実のところは、トモエが生きていた頃の微かな思い出に惹かれ、この地域に戻ってきてしまったのだった。
栄一郎と山本のやりとりを、岸野は横目に見ながら、沙耶香の睫毛を触り、鎮静が十分にかかっているのを確認した。
「次、筋弛緩いきます。橋本君、ロクロニウム3mg iv」
岸野は右手で沙耶香の口元にマスクを当てたまま、左手で麻酔器に繋がったバルーンを握った。
「ロクロニウム3mg ivしました」
橋本のその宣言の数十秒後、沙耶香の呼吸が弱くなる。岸野は右手のマスクを沙耶香の口にぴったりとフィットさせ、左手でバルーンをもみ、沙耶香の呼吸の補助を行う。モニターに表示される酸素飽和度が一瞬下がったが、岸野の補助換気ですぐに正常範囲に戻った。
「換気良好、挿管します」
岸野はマスクとバルーンから手を離し、小型モニターのついた喉頭鏡を左手に持ち、右手の親指と人指し指をクロスさせて沙耶香の口を上下に広げ、喉頭鏡の先端を沙耶香の口腔内に挿入する。喉頭鏡の小型モニターには、口腔内の様子が写し出されている。
「声帯確認。挿管チューブ」
すでに挿管チューブを準備し、構えていた橋本がチューブを岸野の右手に渡す。受け取った岸野はモニターを見ながら速やかにチューブを声帯の奥に押し進めていく。
「声帯通過。スタイレット抜去」
橋本が挿管チューブ内の金属スタイレットを抜去し、岸野はチューブをさらに奥に進めた。
「カフ、10cc」
橋本は空気の入った注射器で挿管チューブの脇の細いチューブから空気を送り込み、挿管チューブ先端のバルーンを広げた。続いて橋本は挿管チューブと麻酔器の換気チューブを繋げた。
「チューブ保持お願い」
橋本は岸野にかわって、挿管チューブが動かないよう保持した。岸野は麻酔器のバルーンをもみ、聴診器で胸の呼吸音を確認していく。
「胃泡音なし、前胸部・側胸部左右差なし。チューブ固定。口角22cm」
岸野はテープで4方向から、挿管チューブと沙耶香の口を固定した。そして、手動換気から麻酔器の機械換気に切り替え、周辺の環境整備を行う。
「こっちはあらかた終わったわよ」
岸野は山本たちにそう告げた。
麻酔導入完了...
栄一郎は時計を見た。
18時54分...あと、30分か...
栄一郎は焦る気持ちを必死に抑えつけた。
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