第11話 穿孔
栄一郎と山本は病棟に急いだ。山本によると、沙耶香は突然病棟で倒れ、腹部全体の激しい痛みと39℃の熱が出現していたとのことだった。二人は病棟に着くとすぐに沙耶香の病室に向かった。
「失礼します!」
山本は病室に入るや否や、沙耶香のベッドサイドに駆け寄った。沙耶香は体を丸め、腹部を激しく痛がっている。
「一条さん、すみません、お腹の診察をさせて下さい!」
痛がる沙耶香の体勢をなんとか仰臥位にし、山本は腹部の触診を始めた。
「痛っ!」
山本が少し押しただけで、沙耶香は激しく痛がった。
「板状硬だ!おそらく穿孔してる!」
板状硬とは、腹壁が著しく硬いことを意味し、強い腹膜炎の所見である。そして、虫垂炎患者の腹膜炎が急激に悪化した場合、最も考えられるのは穿孔、つまり虫垂に穴が開いているということだ。
「間!CTのオーダーを!」
「は、はい、わかりました!」
栄一郎は戸惑いながらも、緊急CTのオーダーを入れるため、スタッフステーションに走った。
「一条さん!わかりますか!?このあとCTを取りますが、おそらく虫垂に穴が開いています!緊急に手術を行う必要があります!急なことで申し訳ありませんが、宜しいですね!?」
沙耶香は苦痛に耐えながら無言で首を縦に振った。
「誰か、ご家族に連絡を!それから、鎮痛剤!アセリオかロピオン!」
山本は周囲の看護師に次々に指示を飛ばしていく。
「CTオーダー入れました!今、CT室に電話してます」
栄一郎は電話をかけながら、病室に戻ってきた。
「よし、CTは一応確認で撮るが、穿孔はまず間違いない!手術室を押さえよう!」
山本はそう言って、院内PHSで、明日沙耶香の麻酔を担当することになっている同期の麻酔科医に電話をかけた。
「消化器外科の山本だ!明日予定してもらった虫垂炎の患者が、穿孔した!すまないが今から頼みたい!...うん...ああ...わかってるよ!午後の手術の開始が押したんだろ!ああ、わかってるよ、午前の俺の手術が1時間もおしたからだろ!?」
山本と先方の麻酔科医は、何やら揉めている様子であった。
「うん、ああ、わかった、わかったよ!俺は、手術がノロマのヘボ外科医ですよ!これで満足か!」
そんなやりとりのあと、ようやく手術が決まったらしく、山本は電話を切った。
「今やってる予定手術が終わり次第オンコールでスタートだ!だが、そっちの手術の終了予定は今のところ17時台!こっちの搬入は早くても18時だ!それまで保たせるぞ!」
山本はそう周囲に宣言した。だが、その予定時刻を聞いて、栄一郎は呆然とした。18時に手術室に搬入してもすぐに手術が始められるわけではない。麻酔の導入等諸々で30分はかかる。実際に手術が始まるのは、おそらく18時半を回るだろう。死神のカウンターが0になるまで1時間をきっている。その間に手術が無事終了し、状態が安定するかどうか。栄一郎は、ふと思い出し、沙耶香の元に駆け寄った。そして、沙耶香の傍らを凝視する。そこには変わらずあの死神が立っていた。
手術は確定した...でも...死神は消えていない...つまり...この手術は間に合わない...
栄一郎は今度こそ完全に絶望し、その場にへたり込んでしまった。そんな栄一郎をみて、すぐさま山本が近寄り、栄一郎の胸ぐらを掴みあげた。
「間!お前、なに患者の前で終わったみたいな空気になってるんだ!?お前も手術に入るんだ!気合入れろ!」
「え、俺が...」
「お前が一番彼女の手術をおしてただろ!最後まで責任持て!」
山本の叱咤に栄一郎は沈黙した。
俺が...一条の手術に...無理だ...外科医でもないのに...俺に何ができるっていうんだ...俺は...また...助けられない...
「彼の手術参加は、認められない」
栄一郎の絶望に追い打ちをかけるようにそんな声が割り込んできた。見ると、病室の入口に清水医局長が立っていた。
「間君の処分はまだ決まってない。処分保留中の問題人物を手術台の前に立たせるわけにはいかない」
清水医局長は冷たくそう告げた。その宣告を栄一郎は心から受け入れた。
そうだ...俺には無理だ...最初から無理だったんだ...俺が医者なんて...誰かを助けるなんて...
「いえ、間は手術に入れます」
絶望の淵にいる栄一郎をよそに、山本が強く言い放った。
「何?」
山本の意外な言葉に清水医局長は眉根をぴくりと動かした。
「一昨日から今日に至るまで、間の勘は尽く当たってます。動物的勘か、霊感か、神のお告げか知らないが、こいつの勘は役に立ちます」
「そんな理由が認められると思っているのか!?」
「一条沙耶香さんは、俺と間の患者です!!誰がなんと言おうと、手術は俺たちでやります!!」
山本の啖呵に清水医局長は思わずたじろぐ。
「山本、お前も変わらんな...その研修医に昔の自分でも重ねたか?」
「御冗談を。こいつは昔の俺よりよっぽど行儀がいい。ま、解釈はどうぞご自由に」
そして、山本は視線を栄一郎に戻した。
「間、お前はどうするんだ?やるのか?やらないのか?当然ながら、術者は俺、お前は助手だ」
栄一郎はまだ呆然自失だった。
「無理ですよ...俺には無理です...」
「何を理由に急に萎れちまったのか知らないが、今朝言っただろ?最後まで残るヤツは、どんなに痛い目を見ても、患者のためにリスクを背負い続けられるヤツだ。それは外科医に限らない。お前がこれからどの科の医者になっても同じだ!ここで降りたら、今度こそお前は医者失格だ!」
山本の言葉に栄一郎はそれでも沈黙していた。
「ああ...もううるさいなぁ...」
不意に弱々しい声でそんなつぶやきが聞こえてきた。
「山本先生...うるさい...人がメチャメチャお腹痛いのに...」
沙耶香であった。体を丸めお腹を痛がりながら絞り出すように声を出していた。つい先刻、点滴の鎮痛剤が始まったところだが、まだ効果が出る時間ではなく、激痛は持続しているはずだ。
「あ...」
沙耶香のクレームに、山本はそんな間抜けな声を上げて固まってしまった。冷静になれば、そこは病室で、沙耶香もいれば、他の患者もいるのだ。
「でも...間...山本先生の言う通りだよ...間...最後まで私の治療に付き合ってよ...」
沙耶香の言葉に、栄一郎の目に光が戻ってくる。
「いいのか...俺、研修医1年目だぞ...」
栄一郎は自信なげにそう聞いた。
「間が全部やるわけじゃないでしょ...それに...間言ってたじゃん...私を助けてくれるんでしょ...」
沙耶香のその言葉で、栄一郎は昨晩の決意を思い出した。
そうだ...俺は、昨日一条に必ず助けるって言ったんだ...
栄一郎は、沙耶香の傍らに佇む死神を再び睨みつけた。
もうこのあと、俺に何ができるかわならない...何もできないかもしれない...でも、一条のために最後まで足掻いてやる...
栄一郎は山本の方に視線を移した。
「山本先生。すみませんでした。俺を、手術に入れて下さい!」
栄一郎は山本に向かって深く頭を下げた。
山本は、余計な手間取らせやがってという顔をしている。
「よし、とりあえず、CT行くぞ!」
「はい!」
栄一郎と山本は、沙耶香のベッドサイドに駆け寄り、ベッドのロックを外し、ベッドごと沙耶香を病室の外に運びだして行った。
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