第10話 裁判

 数分後、栄一郎と山本は、教授室にいた。彼らの前には、東亜医科大学消化器外科教授の吉田三郎がいた。吉田は部屋の最奥に設えられたマホガニーのデスクに座っている。その傍らに2人、医局長の清水と病棟医長の川崎が立っていた。


「お二人共、お忙しいところすみませんねぇ」


 吉田教授はにこやかに微笑みながらそう切り出した。


「川崎先生、内容をお願いします」


 吉田教授は川崎病棟医長に話を振り、川崎病棟医長が話はじめた。


「山本、今、一条沙耶香さんという虫垂炎の患者を担当しているな?」


「ええ、明日の午前、手術予定です」


 山本はぶっきらぼうに答える。


「確か、その患者は手術を希望されず、抗菌薬治療の方針だったはず。手術するに至った経緯は?」


「今日、ご本人から手術の希望がありました。ご本人曰く、ネットで虫垂炎について調べていて考えが変わったと」


「その話には、嘘がある。彼女は自分でその判断をしていない」


「どういうことですか?」


 山本は怪訝な顔をする。


「間君、何か言うことはないか?」


 川崎病棟医長はじろりと栄一郎を睨んだ。


「何のことでしょう?」


 栄一郎は焦った。もしかして、自分が沙耶香を説得したことがバレているのかと。


「とぼけるか。情状酌量の余地はないな。間君、君が一条さんに手術を勧めたとき、隣の患者のベッドサイドで別の医師が診察中だったんだよ」


 栄一郎はすーっと血の気が引いた。


 全て、バレている...


「その医師は、君が彼女に話した内容を事細かに教えてくれた。君は、彼女にこのままだと死ぬと脅かして、手術に誘導したね?」


「違います!脅かしてなんていません!」


「このままだと死ぬ、というのは十分脅かしているよ。そうでなくても、患者に嘘の情報を与えて、治療方針を誘導するなど、医師としての基本的倫理に反している。君は医学部1年の基礎教養からやり直すべきだ」


「嘘の情報なんかじゃ...」


 栄一郎はそこで言葉に詰まった。栄一郎の根拠は全てあの死神の存在なのだ。死神の存在を科学的に証明でもしない限り、栄一郎が沙耶香に話した内容は、医学的に何の根拠もない、大嘘ということになる。


「君の処分についてだが...」


 川崎病棟医長にかわって、清水医局長が口を開いた。


「君が初期研修医である以上、君の本質的な所属は臨床研修センターだ。この場の事実確認のあと、センター長に報告し、処分を協議する」


 臨床研修センターとは、初期臨床研修を行っている大学病院にはほぼ全て設置されている組織であり、研修プログラムの運営と研修医の管理を一括して行っている部門である。初期研修医は各診療科をローテートで回っているが、特定の診療科に所属しているわけではないため、清水医局長の言う通り、研修医の本質的な所属は臨床研修センターなのだ。


「間君、最終確認だ。君は一条さんにこのままだと死ぬと言った。その事実に間違いはないね?」


 清水医局長は検察官の如く、栄一郎に最後の確認を行った。


「はい...間違いありません...」


 栄一郎はそう言って静かに首を縦にふった。


「間先生...」


 そこで、ずっと黙っていた吉田教授が口を開いた。


「昔の研修医は、医者の中で最も身分の低い存在であり、それゆえ、下働きとして安い賃金で過剰な労働を強いられていました。不幸なことに、過労死や自殺なんてこともありました。時代は変わり、徐々に過ちに気づいた我々は考えを改めました。今日、あなた方研修医という存在は、我々にとって、国から指導を任せられた大事な大事なお客さんなのです」


 吉田教授はにこやかにゆっくりと話を続ける。


「しかし、そのお客さんが家主の預かり知らぬところで、台所に入り込み、あろことかガスコンロで火遊びをしている。となったら、その家の家主はいったいどう思うでしょうねぇ?」


 吉田教授は微笑みを崩していないが、その目には怒りが満ち満ちていた。

 栄一郎は絶望した。自分の立場のことではない。沙耶香の手術を今日に前倒しする方法を思いつかずすでに手詰まりだったところに、この一件で栄一郎の発言権は皆無になってしまった。下手をするとこのまま謹慎処分ということで、病院からつまみ出されてしまうかもしれない。そうなれば、沙耶香の死に何も手を出せなくなってしまう。

 栄一郎が逡巡している間、その場の全員が重い空気で沈黙していた。その沈黙を切り裂くように山本の院内PHSが鳴った。


「失礼」


 山本は一言謝って、電話に出た。


「山本です。え...わかりました。すぐ行きます」


 山本は短くそう言って電話を切り、そして全員にこう告げた。


「一条さんが急変しました」

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