第8話 患者の決断

 栄一郎は午前中の業務を終え、昼休みの時間を使って、沙耶香の病室を訪れた。


「一条、間だけど、入るよ」


 栄一郎はそう断って、カーテンの中に入った。


「ああ、間、どうしたの?」


 沙耶香はそう言って、読んでいた本に栞を挟んで閉じた。


「単刀直入に言う。手術を受けてほしい」


 栄一郎はベッドサイドの丸いパイプ椅子に座るや否や、開口一番そう言った。


「え、何でよ?急に…」


 沙耶香は怪訝な表情で問い返した。


「理由は色々ある。まず、虫垂炎の非手術例の再発率は30-40%あるんだ。今のままの治療だと、再発する可能性がある」


「それは、私も聞いたよ。でも、山本先生は、今朝来て、血液検査良くなってきてるから、このまま様子を見ようって…」


「それは…」


 栄一郎は言葉に詰まった。


 やられた…


 山本は今日の午前は手術のはずだった。まさか、山本がそんなに早く沙耶香に検査結果の説明をしているとは思いもしていなかった。おそらく、栄一郎と別れたあと、そのまま沙耶香の病室に来て、検査結果の説明をして、それから手術に行ったのだ。


 俺がここに来るのは完全に見透かされていたってことか…山本先生じゃなく先に一条を攻めるべきだった…


「間、ねえ、どうしたの?」


 沙耶香は、考え込んでいる栄一郎の顔を覗き込みながら聞いた。


「いや、なんでもない…そうか…山本先生がそう言ってたのか…」


 栄一郎はできるだけ平静を装いながら、次の手を考えていた。


 どうする?山本先生が一条にそう説明してしまっている以上、今更俺が何を言っても、かえって不審に思われるだけだ。どうすればいい?どうすれば…


「間!」


 深刻な顔で考え込んでいる栄一郎に、沙耶香は大声で呼びかけた。数秒間だが、栄一郎は思考に深入りして、沙耶香の声が聞こえていなかったのだ。


「間、やっぱりおかしいよ!医者になったばっかりで色々大変なのかもしれないけど!どう考えても、なんかおかしいよ!」


 ずっと言いたいのを我慢していたのか、堰を切ったように沙耶香はまくし立てた。


「ごめん…」


 沙耶香の言葉に、栄一郎はただ一言そう言うしかなかった。何に謝っているのかわからないが、ただただ申し訳なくて、そんな言葉しか出てこなかったのだ。


「はあ…」


 沙耶香はため息をついて、前髪を後ろにかきあげた。


「ねえ…何かあるんだったら話してよ…」


 栄一郎は悩んだ。


 全て話すべきか?いや、俺にしか見えない死神なんて信じてもらえるわけがない。それこそもう信頼を失ってしまうかもしれない。


「私達、そんなに仲が良かったわけじゃないから、全部包み隠さず話せとは言わないけど、でも、長い付き合いじゃない?話せることだけでもいいから…」


 沙耶香は栄一郎の顔を覗き込みながら、ゆっくりとそう語りかけた。


「一条は俺を信じてくれるか?」


 栄一郎は恐る恐るそう問うた。


「私は、間が良いやつだって知ってるよ。トモエが生きてたころ、間はいつもトモエを守ってた。そして、今、間は私を守ろうとしてくれてるんでしょ。だから、私は間を信じるよ」


 沙耶香の答えに栄一郎は意を決する。


「全ては話せない。話せるところだけ話す。俺にはわかるんだ。一条はこのままだと死んでしまう。明確な説明はできないが、俺にはわかるんだ。だから、手術を受けてほしいんだ」


 沙耶香は死の可能性を告げられたのにも関わらず、驚いた様子はなかった。栄一郎の様子からなんとなるそんな気がしていたのだ。


「そっか…それは、間の医者としての勘?」


「そんな立派なものじゃないが、そのようなものだと思ってもらっていい」


 沙耶香は沈黙した。数秒考えたのち、こう言った。

「うん、わかった、受けるよ。手術」


「いいのか?」


 栄一郎は不安気に問い直す。


「うん、私、間の話を信じるよ」


 沙耶香はそう言って朗らかに微笑んだ。


「ありがとう」


 栄一郎は深々と頭を下げ、震える声で心から感謝を述べた。そして、頭を上げ、期待を込めて、沙耶香の傍らに目を向けた。しかし、まだそこには、死神がいた。


 まだなのか?何が足りないんだ?いや、もしかしたら、まだ手術が確定していないからかもしれない。手術が確定すれば…


「俺、山本先生に連絡するよ」


 栄一郎は懐から院内PHSを取り出す。


「待って」


 沙耶香が栄一郎の手を止める。


「間から連絡したら、きっと勘繰られるよ。私、今から看護師さんに頼んで山本先生に取り次いでもらうよ」


 沙耶香はそう言ってベッドから足を下ろした。


「理由は、ネットで色々調べてたら、やっぱり手術のほうがいいと思ったとか、テキトーにごまかしとくから」


 沙耶香は喋りながら立ち上がった。


「すまない」


 助けるつもりの沙耶香にそんなふうに気を回してもらって、栄一郎は情けない気持ちでいっぱいだった。


「気にしないで。私だって死にたくないしね」


 沙耶香は朗らかにそう言って病室を出た。栄一郎も少し遅れて病室を後にした。

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