第7話 素質
少年は少女を追いかけていた。夏の夕暮れ、セミの声が聞こえる。彼らはひとけのない神社の階段を駆け上っていた。
「ねえ、待ってよ、トモエ」
「遅いよ、エイイチロウ」
2人は互いに声を掛け合いながら階段を登っていく。そして、少女が先に階段を登り切った。
「今日も私の勝ち」
「別に競争なんかしなくていいじゃないか。」
誇らしく言い放つ少女に、少年は不満気だった。
「みんな、待ってるよ、早く行こう」
「行かなきゃ、だめ?」
「そりゃ、そうよ、みんな待ってるんだから、」
「なんであいつらと仲良くしなきゃいけないんだよ。別に2人だけで、遊べばいいじゃないか」
少年は他の子供たちと遊ぶのが不満のようだった。そんな少年を少女は聡す。
「だめよ、みんなと今のうちから仲良くしとかなくちゃ。だって…」
「だって、何?」
そのとき、回りの景色が急に暗くなる。
「もうすぐ、わたしは…」
少女の背後に黒い死神が現れる。死神は大鎌を右から左へ大きくなぎ払う。次の瞬間ドサリと少女の首が大地に落ちた。
「いなくなるんだから」
地に落ちた少女の首は、何事もなかったかのように微笑みながらそう言った。
「うあああああっ」
栄一郎は叫び声を上げて、目が覚めた。そこは、彼の自宅ではなく大学の図書室であった。東亜医科大学の図書室は、学生、職員向けに24時間開放されており、IDがあれば、夜間も出入り可能である。夜型の学生で、試験前に一晩図書室で過ごす者もいる。栄一郎は昨夜、沙耶香の病室を出たあと、図書室で一晩じゅう虫垂炎の手術に関する文献を調べていたのだ。そして、いつの間にか机に突っ伏して眠ってしまったのだった。
初めてのパターンだな…
栄一郎は、鼻根部を指で押さえながら、夢を振り返った。いつもの夢は倒れたトモエの傍らに死神が立っているだけで、直接的に死神が何かしていることはなかった。現実にはトモエは首が切られていたなどいうことはなかったので、今日の夢は現実とは異なるただの夢なのだろう。
当直明けに家に帰らず、こんなところで座って寝てたら、さすがに悪い夢くらい見るよな…
栄一郎は懐から携帯を取り出し時間を確認する。
7時か…日勤帯までまだ時間はあるが、死神のカウンターが0になるまで、もう12時間しかない…
栄一郎は隣の椅子にかけてあった白衣を着て、図書室を出た。
栄一郎は消化器外科の医局に向かった。 医局の出入口前に、ちょうど出勤してきた山本医師がいた。
「山本先生!ちょっとお話よろしいでしょうか?」
栄一郎が山本を呼び止めると、山本は露骨に表情を曇らせる。
「またか。いやな予感しかしないんだが…」
「お願いします!ほんの少しだけで構いません!」
渋る山本に、栄一郎は頭を下げた。
「はあ、わかったよ。着替えてくるから、ちょっと待ってろ」
山本は、ほんの少しで済むわけないだろと思いながら諦めた様子で、医局の中に、消えていった。
数分後、栄一郎たちは病院の中庭のベンチにいた。山本が、どうせまた面倒なことを言い出すんだろうと察し、医局員の目と耳を避け、この場所を選んだのだ。
「んで、用件?」
「その、一条のことなんですが…」
「却下」
山本は、話は終わりとばかりに、立ちあがろうとする。
「山本先生!」
栄一郎は語気を強めて、山本を留まらせる。
「わかった、わかったよ」
山本はしょうがなさそうに、浮かせた腰を下ろす。
「虫垂炎の抗菌薬治療の治療成績に関する文献を集めました」
栄一郎は100枚近くに及ぶ資料を差し出した。
「抗菌薬治療での再発率はおよそ30-40%です。多くの文献で、抗菌薬治療が奏効しない場合は速やかに手術に踏み切るべきだとされています 」
栄一郎の説明を聞き流しながら、山本はパラパラと資料に目を通した。
「お前さ、まさか、この内容全部俺が知らないとでも思ってんの?」
山本はため息を吐いて、そう言った。
「現役の消化器外科医だったら、この程度の内容は全部頭に入ってるよ」
そう言って資料を栄一郎に突き返した。
「問題は抗菌薬が効いてるかどうかってところだ。一条さんの症状は、今どうなってる?」
「その…痛みは軽快しています…」
「そう、症状は改善傾向、そして…」
山本は白衣のポケットから折り畳んだ紙を取り出し、広げて栄一郎に渡した。
「今日のラボデータ、早目に出てたから、さっき印刷しといた。白血病12000、CRP14
、どう読む?」
「入院時に比べて、白血球は少し下って、CRPは少し上がってます」
「つまり?」
「CRPは遅れて上がってくるので、白血球が下っているということは、改善傾向です」
白血球とCRPは、医療現場で最も頻繁に使用される炎症反応の指標である。風邪でも、肺炎でも上がるし、ときには、癌でも上がることがある。極めて簡略に言えば、この2つが高いほど、病気の勢いが強いということだ。そして、白血球はすぐに上昇・下降し、CRPは2,3日遅れて数字が変動する。今回で言えば、CRPが上昇していても、白血球が下降しているので、おそらく数日後にはCRPも下ってくると予測される。つまり、病状は改善傾向と考えられる。
「改善傾向なら、今手術に踏み切る理由はない」
栄一郎は、反論のしようがなく、黙り込むしかなかった。
「まあ、本人が手術を希望したら、話は変わってくるがな」
山本のその言葉に、栄一郎はぴくりと反応した。
やはり、一条自身を説得するしかないか…
「間、あんまり変なことを考えるなよ」
山本は、間の考えを察し釘をさした。
「わかりました。すみません、お時間を頂いてありがとうございました」
栄一郎は資料を片付け、立ち上がった。山本も立ち上がり、それぞれ逆方向に歩きだした。
「間!」
互いの距離が数メートル離れたところで、山本は振り返り、栄一郎を呼び止めた。
「お前、もしかすると外科向きかもしれないな」
山本の唐突な指摘に栄一郎は困惑した。
「外科医ってのは、まず第一に手術の腕がいいことだが、もう一つ大事なことは、手術に踏み切るかどうかの見極めだ」
「だったら、俺は向いてないんじゃないですか?現時点で適応があるとは言えない手術を強く推し進めようとしたんですから…」
栄一郎はそう言って下を向いた。元々、自分に医者としての才能があるなどとは思っていないが、この1ヶ月、研修医としても何もうまくいっていないのだ。
「本当に手術すべきかどうかってのはベテランの外科医でも判断が難しいことは少なくない。俺より上の人たちでも、やるかどうか悩みながら手術に踏み切ることはある。いやむしろ、経験年数を重ねれば重ねるほど、手術で苦い経験をして、次第に手術を躊躇うようになる。中には手術自体が恐くなって、手術から離れて、他の診療科や研究や教育に行く者もいる。最後まで残るのは、手術でたとえどんなに痛い目をみても、患者のためにリスクを背負い続けられる奴だ」
「俺にはそんな覚悟なんてありませんよ」
栄一郎は首を横にふった。
「お前は、今、一条さんの手術を躊躇っていないだろ。若いうちから手術を躊躇うような奴は、経験を重ねるうちに、やるべき手術まで躊躇うようになる。患者のために手術を躊躇わない。それだけで十分素質がある。腕と判断力は、後からでもついてくる」
栄一郎は沈黙した。複雑な気持ちだった。自分は決して手術に積極的なわけではない。だが、あの死神が見えている以上、何もせずにはいられない。今の自分にできることは、手術に向かうよう周りを動かすことしかなかったのだ。
「ま、まだ医者になって1ヶ月と数日だしな。これからゆっくり自分を見極めればいい」
山本は最後にそう言い残して去っていった。
「自分を見極めるか…」
一人その場に残された栄一郎はぽつりとそう呟いた。
自分にできること…自分だけにできること…
俺にはあの死神が見える。そして他の誰にも見えていない。だったら、あの死神に憑かれた一条を、なんとしても助けなければならない。
栄一郎は決意を新たに、歩みだした。
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