第6話 決意

 栄一郎は再び、沙耶香の病室の前にいた。今度は、同姓同名の患者の部屋ではないことも確認している。


「一条、間だけど、入るよ」


 栄一郎はそう言って、仕切りのカーテンの中に入った。


「あ、間...」


 栄一郎は中に入って絶句した。そこにいたのは、今回は確かに沙耶香だった。しかし、沙耶香は両目から大粒の涙を流していたのだ。


「あ、ごめん、なんでもないの」


 沙耶香はそう言って涙をぬぐった。


「なんでもないってことはないだろ。どうしたんだ?痛むのか?」


 栄一郎はおどおどしながら聞いた。


「いや、その、ちょっと、思い出し泣きしちゃって」


「思い出し泣き?」


「うん、父親のこと思い出しちゃって。私が中学のとき、死んじゃったんだけど、そのとき、この病院に運ばれたんだ」


 栄一郎は目を丸くして驚いた。中学のときといえば、栄一郎と沙耶香は別の学校だったので、知らなくても無理はないのだが、いつも陽気で学校の中でも常に中心に近いポジションにいた沙耶香にそんな過去があったとは、栄一郎は思いもよらなかった。

 沙耶香は落ち着いた声でぽつりぽつりとその時のことを話し始めた。


「よりにもよって、私の誕生日の日でさ。家族3人で普段行かないようなちょっといいお店に行くところだったんだ。店まであと5分ていうところで急に倒れちゃって、お母さんが救急車呼んだんだけど、救急車が着いたときにはもう心臓が止まってて」


 沙耶香は、枕元にあったティシュ箱から、ティシュを何枚かとり、鼻をかんだ。


「救急隊の人がすぐに心臓マッサージを始めて、電気ショックとかもやって…すごいよね、あれ、ほんとにドラマとかみたいに、体全体がびくんって跳ねるんだね」


 栄一郎はかける言葉がなかった。沙耶香は無理に笑顔を作って、できるだけ明るく話そうとしているが、中学生の少女が、父親のそんな姿を目の当たりにして、きっと相当なショックだったに違いない。


「それからこの病院に運ばれたんだけど、結局心臓は動かないままだった。その時の救急の先生は、心筋梗塞からのシンシツなんとかだろうって」


「心室細動か?」


「あー、そう、そんなカンジの名前だった」


 心室細動とは、心臓を主に動かしている心室筋が無秩序に興奮し、けいれん状態になってしまう致死的不整脈である。けいれん状態になった心臓は血液を送り出すことができない。つまり、心臓は細かく震えてはいるが、機能的には止まっているのと同じであり、心停止として心肺蘇生処置を行わなければならない。特に、心室細動はけいれんを落ち着かせるための電気ショックが治療の要だ。今や街中に設置されるようになったAED(自動体外式除細動器)も心室細動の治療のためと言っても過言ではない。そして、心室細動の原因で多いのが、心筋梗塞である。


「そのあと、さすがに精神的にキツくてね。お葬式のあとも、1週間くらい何もできなくて、学校も休んじゃった。もう10年も前のことだし、こんなふうに泣き出すことなんて全くなかったんだけど、今朝、売店行った帰りに、外の空気吸いにふらっと表を歩いてたら、ちょうど救命センターの出入口に救急車が着いて、中から心臓マッサージされてる人が運び込まれて、それで、色々思い出しちゃって」


「その、なんていうか、つらかったな」


 栄一郎は、なんとか、言葉を絞り出した。医者は、大切な人を失った家族に何度となく接する。そんな人たちに心をいたわる言葉をかけなければならない。しかし、どんな言葉をかければいいのか、医学部では誰も教えてはくれなかった。それもまた、現場の中で、自分の中から言葉を紡いでいかなけれならないのだ。


「なに、それ、もうちょっと気の利いたこと言えないの?」


 沙耶香は涙まじりに笑いながら言った。


「そういうところは、昔と変わってないね。まあ、間らしくていいけど」


「すまない」


 栄一郎は申し訳なさそうに下を向いた。


「でも、ありがとう。おかげで、ちょっと落ち着いたよ」


 沙耶香は残りの涙を拭い、深呼吸をした。


「そういえば、なにか用事?」


「あー、いや、ちょっと様子を見に来たんだ」


 栄一郎はそう言って、沙耶香の傍らに目をやった。そこには変わらず、死神が立っていた。沙耶香自身の様子もさることながら、死神の変化を確認したかったのだ。栄一郎はポケットから携帯を取り出し、時間を確認する。


 19時25分、そろそろか?


 栄一郎は再び死神に目を移す。


「間?」


 沙耶香は、神妙な面持ちで宙を見つめる栄一郎を不可思議に思い声をかけるが、栄一郎は何かに集中し答えない。

 数秒後変化は起きた。死神の胸元の黒水晶の中の赤い数字が2から1に変わったのだ。栄一郎は息を飲んだ。


 昨日数字が変わった時刻と全く同じだ。やはりこの数字の単位は日数だ。そして、もし、この数字が寿命を示しているのだとしたら、一条は...


 栄一郎は額に手をあてよろめく。


「大丈夫?」


 様子のおかしい栄一郎の顔を沙耶香が下から覗き込む。


「いや、大丈夫だ。色々と仕事でやっかいなことがあって...」


 栄一郎はそう言ってごまかしながら、思考を巡らせる。


 残された時間はあと24時間だ。どうする?どうしたらいい?俺に何ができる?


 この事実を知っているのは、地球上で栄一郎一人だけだ。この重圧に、今更ながら栄一郎は押し潰されそうになっていた。


「やっぱりお医者さんて大変なのね」


 当の沙耶香は、そうとは露知らず、栄一郎に労いの言葉をかけた。


「ねえ、間って、何科のお医者さんになるの?」


「え?」


 沙耶香の唐突な質問に栄一郎は戸惑う。


「研修医って色んな科を回ったあと、専門に進むんでしょ。間はどうするの?」


「あ、えと、いや...」


 栄一郎はしどろもどろになる。考えていないわけではないが、自分が何をやりたいのか、自分に何が向いているのかわからず、かねてより進路を決めかねているのだ。


「まだ、決まってない。研修で色々回りながら決めようと思ってる」


「そっか、だったら、間さ、救急とか、命を助けるところに行きなよ」


 沙耶香の突拍子もない提案に栄一郎はさらに困惑する。


「なんだよ、いきなり…」


「だって、間、そのために医者になったんじゃないの?つまり、その、あのときの…」


 沙耶香はそこで言葉を濁し、栄一郎の様子を伺う。


「トモエのことか…」


 栄一郎が落ち着いていることを確認し、沙耶香は話を進める。


「間はきっと、トモエのことを助けたかったんだよ。だから、医者になったんじゃないの?」


 栄一郎は沈黙した。はっきりと意識していたわけではないが、確かにそうかもしれない。ずっとあの日の光景を夢に見続け、あの光景をなんとかしたい、あの光景をなかったことにしたい、そういう思いから、いつの間にか医者を目指すようになっていたのかもしれない。


「確かに意識していないと言えばウソになる。だけど、俺は…」


 栄一郎はそこで言葉を濁す。自分はやはり、人に話せるような立派な思いはない。ただ、あの光景から逃げたいだけなのだ。


「なってよ、間。トモエや、私のお父さんみたいな人を助けられる人にさ」


 沙耶香は、期待と、そして、どこか悲しみを抱えたような表情で、栄一郎にそう言った。栄一郎は戸惑った。こんなふうに人から医者として期待をかけられたのは、初めてだった。しかし…


「簡単に言ってくれるな。医療は万能じゃない。どうやっても助からない人は一定数出てくる。そもそも俺は、医者として優秀な部類じゃない。そんな立派なものにはなれないよ」


 沙耶香の期待とは裏腹に、栄一郎は現実を告げた。

 人はいずれ死ぬ。医学とはその死ぬまでの時間を少し伸ばすだけに過ぎないのだ。


「そっか、そうだよね。ごめんね。変なこと言って」


 栄一郎の言葉に沙耶香は落胆しながらも、笑顔を作った。


「すまない、もう行くよ…」


 栄一郎は沙耶香に背を向け、仕切りのカーテンに手をかける。


「でも…」


 栄一郎は、振り返り、沙耶香の傍らに佇む死神を睨んだ。


「一条、君だけは助けるよ」


 栄一郎はそう言い残して、部屋を出ていった。残された沙耶香は唖然としていた。


「なに…今の…」


 栄一郎の言葉の意味がわからず、様々な憶測をめぐらし、もやもやとしながら、沙耶香はふとんに潜り込んだのだった。

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