第5話 研修医の苦悩
その後、栄一郎は医局で山本にばったり出合い、思いつく限りの恨み言を言った。山本の方はというと、昨晩の振る舞いは、栄一郎をからかうための仕込みだったことを明かし、今日の栄一郎の様子を見て、大いに満足したのだった。
栄一郎は、その日の業務を最低限こなし、そして、夜を迎えた。栄一郎は研修医用の地下ロッカールー厶のベンチに座り、ちらちらと時計を確認していた。
「あれ、直明けなのに、まだ帰ってなかったのか?」
そこに同期の橋本俊輔が現れた。
「あー、そっか、彼女が虫垂炎で入院してるんだって?」
話は周り周って、とうとう現在の彼女というところまで、登り詰めていた。
「彼女じゃなくて、ただの同級生だよ」
栄一郎はため息をつきながら、訂正する。もはや、訂正するだけ無駄だと諦めてはいるが。
「あ、そう」
橋本はこの話にそれほど興味がない様子で、栄一郎の隣にどかっと座り、「はあぁ…」と大きなため息をつく。
「そっちこそ、遅くないか?麻酔科は終わるの早い方だろ?」
栄一郎は疲れきっている様子の橋本にそう問いかけた。橋本は4月から麻酔科で研修をしていた。栄一郎の言うとおり、麻酔科は緊急手術が入るか、予定手術が長引くかしなければ、比較的終業時間は早い方である。
「指導医にちょっと、絞られてたんだよ」
「絞られるって、まだ、直接麻酔かけたりしないだろ?」
「麻酔じゃなくて、術前回診のほうだよ」
術前回診とは、麻酔科が手術前に、麻酔が安全に行えるかどうか、手術予定患者を診察したり、胸部レントゲンや心電図などをチェックすることである。
「術前回診のチェックが甘いって、こってりしぼられてさ。特に、俺、学生の頃から心電図が苦手でね。房室ブロックやら、QT延長やら、不整脈をぱらぱら見逃しちまったんだよ。もちろん、指導医がダブルチェックするから、特に問題になることはなかったけど」
橋本はベンチの背もたれに身を預け、天井をみつめた。
「俺、ちゃんと医者になれんのかな?」
「もう、なってるじゃないか」
「いや、そうじゃなくて、ちゃんと初期研修修了できんのかなってさ…」
彼ら初期研修医は、医師国家試験に合格し、医師免許を取得しており、行政上は立派な医師である。しかし、その医師免許を取得してから1ヶ月、彼らは現場で自分たちの無力さに打ちのめされていた。日本の医学部は、臨床実習の時間も増えてはきているが、基本的には基礎医学の座学教育が主体である。彼ら初期研修医は、臨床現場で求められる実践的な知識や技術をほとんど持たされないまま現場に放りだされるのである。彼らは現場の現実に打ちのめされながら、実戦の中で徐々に力をつけ、なんとか2年間の初期研修を生き残っていく。ゆえに、彼らの中には、ごく少数ではあるが、臨床現場に適応できず、脱落する者もいる。
「5月病か?」
「そうかもな…」
栄一郎も、橋本も、初期研修2ヶ月目としては、ごくごく平均的な能力であると言える。しかし、彼らは医師である以前に、大学を卒業したばかりの、社会人2ヶ月目の若者なのである。自分の能力、職場の人間関係、社会人としての責任、この仕事への適性、将来への不安、そういったものが色々見えてきて、思い悩み始める時期である。
栄一郎は弱気になっている橋本を横目に考える。
もしかすると、今、自分が1番の脱落候補なのかもしれない。深く考えないようにしていたが、あんなものが見えるなんて、自分の頭はまともなんだろうか?いや、もし、本物の死神だったとしても、そんなものが見えて、今後自分はまともでいられるだろうか?沙耶香1人でも、右往左往して、周りから奇異な目で見られているのに、他の人の死神も見えるようになってしまったら?もし、周りの誰にもわからない死の兆候に気付いてしまって、自分はそれにどう対処したらいいのか?見てみぬふりをするのか?
栄一郎は考えただけで気が狂いそうになり、そこで一旦考えるのやめ、時計を見た。
19時。そろそろ行くか。
「悪い、ちょっと用事あるんで行くわ」
栄一郎は私服に着替えず、白衣のままロッカールームの出口に向かう。
「ん?帰るんじゃないのか?」
てっきり栄一郎が帰り支度をしているものと思っていた橋本は、疑問の声を投げかける。
「うん、ちょっと、状態が気になる患者がいるんだ」
栄一郎はそう言って、ロッカールームを出た。
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