第4話 消えない死神

 翌朝、栄一郎は沙耶香の病室に向かっていた。昨晩は他に何人かの救急外来患者の対応をしたが、概ね平和で睡眠時間は確保できた。もっとも熟睡はできなかった。死神の夢はみなかったが、沙耶香のことが心配で何度も目が覚めた。

 病室に向かう栄一郎の足取りは重い。沙耶香のことが心配で一刻も早く無事な姿をみたいが、沙耶香の顔を見るより先にあの死神の姿と顔が目に飛び込んでくるのであろう。


 いや、待て。昨日のアレは何かの間違いで、今日になったら消えているかもしれない。うん、きっとそうだ。そうであってくれ。


 栄一郎はそんな願いをいだきながら、病室の前に立った。入り口のネームプレートでベッドの位置を確認し病室内に入る。四人部屋の左の窓際。


「一条、間だ。入るよ」


 そう言って栄一郎は仕切りのカーテンを開けて中に入る。


 いない!?


 栄一郎は驚愕する。そこにいるはずの死神の姿がなかったからだ。


 やった、何でかわからないけど消えた!!


「一条!!」


 栄一郎は喜びながら、沙耶香の名を呼んだ。


「はい、なんでしょう?」


 ベッドの主がもぞもぞとベッドから起き上がった。30代の女性。栄一郎の知る一条沙耶香ではなかった。


「あ、えと、間違えました!すみません!!」


 栄一郎は逃げるように病室の外に飛び出て、入り口のネームプレートを再確認した。

 一条沙耶香、そのベッドの位置には確かにそう書いてあった。


「あ、間先生」


 戸惑っている栄一郎に通りがかりの看護師が声をかけてきた。


「もしかして、昨日入院になった虫垂炎の一条沙耶香さんを探してます?」


「え、ああ、そうです」


 栄一郎はおずおずと答える。


「その部屋の一条沙耶香さんは、昨日憩室炎で入院になった人で、先生がお探しの人じゃないですよ」


 看護師はなぜか嬉しそうに、そう言った。


「え、それって」


「そう、困ったことに同姓同名なんですよ。しかも字も一緒。今部屋も近いんですけど、取り違えになったらいけないので、ベッドコントロールがついたら、部屋を離す予定です。」


 時すでに遅しで、もうすでに栄一郎が取り違えてしまったところだった。栄一郎はため息をついた。


「間先生の一条さんは422号室ですよ」


「ありがとうございます」


 栄一郎はお礼を行って、言われた番号の病室に向かった。

 改めて、ネームプレートでベッド位置を確認し、部屋に入る。


「一条沙耶香さん、失礼します」


 先程のことがあったので、なんとなく、他の患者さんと同じように呼びかけてカーテンを開ける。

 そして、今回も死神の姿はそこになかった。しかし、その代わり、ベッドの主も不在だった。


「留守か」


 トイレか、売店に何か買いにいったのか。

 栄一郎は病室を出る。


「あ、間先生、一条さんだったら、さっき売店に行かれるって言ってましたよ」


 病室を出たところで、また別の看護師にそう声をかけられた。


「あ、ありがとうございます」


 栄一郎はお礼を言って、いったん病室を後にして、スタッフステーションに向かう。沙耶香本人の状態を確認できなかったが、それはそれとして、電子カルテ記録で、バイタルサインなどにおかしいところがないか確認しておかなければならない。


 ん、あれ、さっきからみんな、なんで俺が一条を探してるってわかったんだ?


 そんなことを考えているうちに、病棟中央のスタッフステーションに着いた。看護師の朝の申し送りが終わり、夜勤明けの者が帰る準備をしたり、雑談をしたりしている。


「あ、間先生!!」


 雑談をしていた一団が栄一郎に気づき、駆け寄ってきた。


「で、間先生、一条さんとはつきあってたの?」


 先頭の看護師が、開口一番そう言った。


「へ.......」


 栄一郎は、あまりにも突然なその内容に、間の抜けた声をあげてしまった。


「それとも、告白してフラれたの!?」


「もしかして、ずっと思いを秘めたまま、卒業して離れ離れに...」


「きゃあ!」


「情けない!!」


 看護師たちは口々に好き勝手なことを言っている。

 なぜこうなったのか?話は30分前に遡る。


 看護師たちが朝の申し送りを始めるべくスタッフステーションに集まり始めたところであった。そこに山本が現れたのであった。


「いやー、ちょっと聞いてよー。今来てる研修医の間君がさー...」


 山本は、わざとらしくスタッフステーションじゅうに聞こえるような声で、昨晩の経緯を話し始めた。一条沙耶香という患者のこと、研修医の間栄一郎がその患者と知り合いらしいということ。栄一郎の不自然な言動、行動。


「いやー、あれは、絶対昔なんかあったわー。なんか、目がもう、『この娘は俺が守るーっ!!』って言ってんだもん。あんなおとなしそうなのに、CT撮ろうだの、手術したほうがいいだの、俺に食ってかかってきてさー。もう、どこの○ラックジャックに○ろしくだよ?ってかんじでさー」


 山本の話に、看護師たちは、「きゃあ!!」だの、「キター!!」だの沸きに沸いたのだった。


 山本先生、なんてことを...


 情報の出どころを知り、栄一郎は絶句した。そして、山本の昨晩の言葉を思い出した。


『俺にけんかを売ったら、どういうことになるか、お前は明日、いやというほど理解することになる。覚悟しておけ』


 どういうことって、こういうことっすか、山本先生...。終わった。この病院での初期研修2年間終わった。俺は、これで、昔好きだった女のために、上級医に逆らった研修医として、病院中に名前が知れ渡るんだ。


 病院という組織の中で、看護部というのは最も縦・横に広く、最も結束が強い一団である。病院内である人間の社会的地位を貶めようと思ったら、マイナスの情報をスタッフステーションで複数の看護師にリークすればいい。あとは、悪事千里を走り、病院じゅうに知れ渡るだろう。

 まだ、看護師たちの尋問は続いていたが、未来に絶望した栄一郎はゾンビのように無言でスタッフステーションを後にしたのだった。

 栄一郎はとりあえず、医局に戻ることにした。病棟の看護師たちがこの調子では、おちおち電子カルテも開けない。病棟の通常業務もあるが、当直明けということもあるし、同じく消化器外科を回っている同期たちに頼むことにしよう。


 ああ、そうか、あいつらにも知られるのか...、いや、もう知られてるかも。


 栄一郎の気分はどこまでも深く沈んでいく。


「あ、間、おはよう」


 栄一郎が肩を落とし、床を見ながら、とぼとぼと歩いていると、前の方から、そんな声がした。栄一郎は視線を上に上げた。そこには、先程からずっと探していた沙耶香がいた。そして傍らには、やはりあの死神がいた。


 やっぱり、消えてないか...


 栄一郎はさらに胸元の水晶の数字を確認する。「2」、昨晩から変わっていない。


「間、どうしたの?」


 会った瞬間から、何も言わず宙をみつめている栄一郎を不審に思いながら、沙耶香は問いかける。


「あ、ああ、ごめん、その、寝不足でぼうっとしちゃって」


 栄一郎は慌てて取り繕う。


「あー、そっかー、病院の当直って大変なんだねー。」


 沙耶香は栄一郎の答えに納得したようだった。


「それより、一条、症状は?」


「ああ、うん、歩くとちょっと痛みが響くけど、昨日より全然まし」


 心配する栄一郎に、沙耶香はそう言って、ガッツポーズをしてみせる。


「よかった」


 死神がまだ傍らにいる以上、全く安心はできないが、沙耶香の元気そうな様子に栄一郎は少しほっとした。


「間もちょっと休みなよ。寝不足なんでしょ」


「ああ、そうさせてもらうよ。また、ちょこちょこ病室に様子見に行くから」


「うん、ありがとう」


 そう言って二人は別れた。

 栄一郎は、肉体的によりも、精神的にヘトヘトで、もう、今日は仕事を上がりたいところだったが、そうもいかない。なぜならば、今夜確認しなければならないことがあるのだ。

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