第3話 診断
1時間後、山本は診察室のパソコンモニターを食い入るように見入っていた。斜め後ろに栄一郎が立っており、山本の言葉を待っている。
「間先生、君の見解は?」
山本はモニターから目をはずさず、栄一郎に問いかけた。
「虫垂の直径は8mm弱、糞石はなく、周囲の炎症像はありません」
栄一郎は山本が戻ってくる前に読影した所見を述べた。
「つまり?」
「虫垂炎と断定できません」
「その通りだ」
栄一郎は青ざめる。
虫垂炎の線が外れた。振り出しからやり直しだ。でも、次の手がかりがない...どうすればいい...
「CT所見だけだったらな」
青ざめている栄一郎をよそに、山本はそう呟きながら、パソコン画面を操作する。数秒後、机の下のプリンターから1枚の紙が吐き出される。山本はその紙を取り、立ち上がる。
「言ったろ、CTを撮っても初期だと画像所見がはっきりしないこともざらだって」
山本はそう言って、隣の部屋に向けて歩き始め、栄一郎も慌てて後に続く。
隣室は点滴室になっており、ベッドが3つあり、それぞれカーテンで仕切られていた。
「一条さん、お待たせしました」
山本はそう声をかけて、カーテンの一つを引いた。その中で、沙耶香が点滴を受けながら、ベッドに横たわっていた。
「結果をご説明する前に、もう一度体温を測らせて頂いてよろしいですか?」
そう言って、来る途中で取ってきた体温計を沙耶香に手渡した。沙耶香は言われるまま、体温を測る。37.8℃。
「熱が上がってきましたね」
山本は納得という顔をしている。
「一条さん、CTの結果は虫垂炎を断定も否定もできない微妙な所見でした。しかし...」
そう言いながら、先ほど印刷してきた紙を沙耶香に渡す。
「点滴を入れるときに採取させて頂いた血液の検査結果です。ここと、ここを見てください。白血球が14000、CRPが11。これらの数値は、炎症反応と言って、体の中に感染症などの炎症性疾患があり、それもそこそこ勢いがあることを示しています。それに熱も上がってきている。私が最初に言った胃腸炎では、ここまで熱や炎症所見は上がりません。むしろ、間先生の言う虫垂炎に合致する所見です」
山本は、自分の診断を否定し、栄一郎の診断を肯定するかのようにそう話した。
「一条さん、すみませんが、もう一度腹部の触診をさせて頂いてよろしいですか?」
沙耶香はこくりとうなずく。山本は左側から一箇所一箇所、ゆっくり押し込んでは離し、痛みを確認しながら、右側に移っていく。そして、最後に右下腹部の触診を行う。
「あいた」
沙耶香は右下腹部の触診で痛みを訴えた。1時間前の触診ではなかった所見である。
「一条さん、お腹を押したときと離したとき、どちらが痛かったですか?」
「うーん、離したとき」
沙耶香の言葉に栄一郎は目を丸くして驚いた。腹部の触診で、押したときよりも離したときに痛みが強くなることを反跳痛と言い、腹膜炎を起こしていることを意味する。そして、右下腹部の反跳痛は急性虫垂炎を強く示唆する。
「一条さん、検査結果と今の腹部所見を総合すると、虫垂炎にまず間違いありません」
「ほ、本当ですか?」
沙耶香は、驚きながらも、どこかほっとしたような表情をしている。
「本当です。一条さん、すみません。先ほど間先生との議論の中でも言いましたが、早期の虫垂炎は診断が難しいんです。1時間前の状態ではとても虫垂炎とは言いがたかった。しかし、現在の状態ならば、ほとんどの医者が虫垂炎と考えるでしょう」
医者の世界には「後医は名医」という言葉がある。病気の発症初期は、症状や所見が断片的にしかでないため、診断や重症度を見誤ることがあり、後日別の医者が診察した頃には、症状や所見が顕在化しており、より正確な診断を行い易いということからきている。
「治療ですが、選択肢は2つあります。手術で虫垂を切除してしまうか、抗菌薬で炎症を抑え込むかです。どちらも入院してもらうことにはなりますが」
「うーん、手術は、ちょっと怖いなー」
「わかりました。現在の病状ならば、抗菌薬で治癒できる可能性があります。ですが、病気の勢いがどんどん強くなり抗菌薬で抑え込めなくなった場合、最終的に手術になることもあるので、その点はご了承ください」
山本はカーテンの外にいる看護師に病床の手配を指示した。
「それでは、入院の準備を進めるので、しばらくお待ちください。間先生、一条さんの既往歴やアレルギーなど、臨床背景の詳細な問診をお願いします」
山本はぽんぽんと栄一郎の肩をたたき、「お手柄だ」と栄一郎の耳元で小声で呟き、部屋を出ていった。
「あー、良かったー!間の診断が外れてなくて!本当ヒヤヒヤしたわ!って、なんで私入院になるのに喜んでるのよ!もう、間のせいだからね!」
沙耶香は起き上がって、栄一郎の背中をばんばんと叩いて喜んでいる。しかし、栄一郎は全く喜んでおらず、呆然とした表情をしている。
「間?」
栄一郎が喜んでいないことに気づき、沙耶香は栄一郎の顔を下から覗き込む。栄一郎は何もない空中の一点を見つめている。
どういうことだ?なんで...コイツは...まだ...ここにいるんだ?
そう、沙耶香に取り憑いた死神は、今も沙耶香の傍に佇んでいた。
どういうことなんだ?虫垂炎の診断は付いた。入院して治療も始める。それだけじゃまだ、一条の死は回避できないのか?
栄一郎は必死に思考を回していた。が、そんな栄一郎を嘲笑うかのように異変は起きた。死神の胸元の水晶の赤い文字が3から2に変わったのだ。栄一郎はさらに焦る。
なんだ、なんだ、なんなんだ?数字が減ったということは、一条の死の運命は進行中ということなのか?数字はやはり時間なのか?死神が現れて、俺が3の文字が確認してから少なくとも1時間以上経っている。あの数字の1単位は1時間よりは長いと考えていいのか?いや、いずれにせよ、一条の死の運命がまだ変わっていないのは間違いない。虫垂炎の診断が間違っている?いや、CTの所見はともかく、他の所見は完全に虫垂炎だ。なら、治療か?治療の選択が間違っているのか?
栄一郎は考えをまとめ、その場を飛び出した。
「ちょっ、間!!どこ行くの!?」
その場に取り残された沙耶香は、また「あたたた」と痛がりだし、ふとんに潜り込んだ。
「山本先生!!」
栄一郎は夜間外来から少し離れた廊下で、山本に追いつき、大声で呼び止めた。
「ん。何だ?まだ、何かあるのか?」
山本はやや不機嫌そうに振り向いた。
「えと、その...一条の虫垂炎ですが...その...」
栄一郎は言い淀む。言うべきかどうか。数秒逡巡したあと、
「手術をしたほうがいいんじゃないでしょうか!?」
栄一郎は意を決して、自分の考えを告げた。
「根拠は?」
山本は1時間前と全く同じトーンで問うた。
栄一郎は返答しかねていた。なぜならば、今回もやはり、根拠は「死神がそこにいるから」なのだ。色々理由を考えるが、先ほどの山本の反応を見たあとだと、不用意なことを言えば、返って状況は悪くなるのは明白だった。
「ま、お前の考えていることはわからなくもない。相手は虫垂炎だ。最終的に手術になる可能性は十分にある」
栄一郎が言い淀んでいる間に、山本が話を切り出す。
「だが、手術のタイミングを見誤るほど、我々東亜医科大学消化器外科は無能の集団ではない。見くびるのも大概にしろ」
そう言って、山本はきびすを返し、元の道を歩き始めた。栄一郎はここはいったん引き下がるしかないと判断し、一条のいる点滴室に戻ることにした。
「あー、それから、間」
山本は背を向けたまま、思い出したように栄一郎に声をかけた。
「結果的にお前の診断はあたったが、それは単なるまぐれあたりだ」
山本は振り返り、栄一郎を睨みつける。
「俺にけんかを売ったら、どういうことになるか、お前は明日、いやというほど理解することになる。覚悟しておけ」
山本はそう言い残して去っていった。
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