第2話 衝突

 山本が帰ってきたとき、栄一郎は完全にパニック状態だった。床に倒れた沙耶香を抱え、声を震わせながら、必死に呼びかけている。山本はすぐに2人に駆け寄り、沙耶香の首に触れる。頸動脈拍動はしっかりある。よく見れば呼吸もしている。


「落ち着け、間先生。呼吸と循環は保たれている」


 山本の言葉で、栄一郎はようやく我を取り戻した。


「4月のオリエンテーションでICLSは受講しただろう?素人じゃないんだから、冷静にやるべきことをやれ!呼吸と循環は保たれている。意識は不明。次にやるべきことはなんだ?」


「えっと、バイタルサインの確認です」


「その通りだ」


 山本は診察室内に備えてつけてあるSpO2モニターと血圧計を持ってくる。SpO2モニターを沙耶香の人差し指につけ、反対側の上腕に血圧計を巻く。


「SpO2 98、心拍60、血圧95/60、脈遅めで、血圧ちょい低めか...」


 測定が終わったところで、沙耶香が目をあけた。


「あれ?...えと...あたたた...」


 意識が戻った沙耶香は再び上腹部を痛がり始める。


「一条さん、意識を失って、倒れてしまったんですよ。おそらく、強い痛みによる神経調節性失神です。一過性のものなので、基本的には心配ありません」


 山本は沙耶香を安心させるよう、にこやかにそう説明した。栄一郎もようやく落ち着きを取り戻していた。だが、しかし、


「一条、それ、見えるか?」


 栄一郎は左腕で沙耶香の上半身を抱えたまま、右手で沙耶香の左斜め前を指差した。


「えと?いす?」


 沙耶香の言うとおり、栄一郎が指差す先には、沙耶香が倒れる前まで座っていた椅子があった。沙耶香の返答を聞き、栄一郎はちらりと山本の方を見た。見当識の確認か、視力の確認なのか、変なことを聞くなと、山本も顔に疑問符を浮かべている。


 やっぱり見えてない...見えているのは俺だけか...


 そう、栄一郎の目には、そこに「それ」がみえていた。黒い布を被り、大鎌を携えた骸骨が。

 栄一郎は「それ」を見上げながら、頭を整理する。


 なんなんだ、こいつは?死神?まさか?俺は夢をみているのか?幻覚?幻視?


 栄一郎はさまざまな可能性に考えを巡らせるが、当然答えはでない。だが、しかし、一つ確信を持てることがあった。


 トモエが死んだ時にいたやつと同じだ!


 栄一郎はもうこの存在を本物の死神だと仮定することにした。


 となると、今、危ないのは...


 栄一郎は死神から沙耶香に視線を移す。


「なに?どうしたの?」


 尋常ではなく思い詰めた栄一郎の表情に沙耶香はたじろぐ。だが、そんな沙耶香の反応に気づくこともなく、栄一郎は必死に考えを巡らせる。


 もし、一条が死ぬのだとしたら、いつ死ぬ?数分後か?数時間後か?数日後か?死神の首にぶら下がってる水晶の中の数字は死ぬまでの時間を表しているのか?どうやって死ぬ?事故か?病気か?腹痛は関係あるのか?俺はどうすればいい?一条を助けられるのか?わらからないことだらけだ...でも...俺にできることをやるしかない!


「一条」


 栄一郎は意を決し、沙耶香の目をみて、口を開いた。


「な、なによ?」


「妊娠の可能性はないか?」


「な、ちょっと、急に何言い出すのよ?」


 栄一郎のあまりにも唐突なデリカシーのない質問に沙耶香は困惑する。


「大事なことなんだ」


「ないわよ!なによ、この痛いのが、妊娠だっていいたいの?」


「いや、そうじゃない」


 栄一郎は沙耶香から山本へ視線を移す。山本は、栄一郎の意図をおおよそ察している表情だった。


「山本先生、腹部CTを撮らせてください」


 栄一郎の提案に山本はやっぱりかという表情をしている。栄一郎が妊娠の可能性を聞いたのは、CTを撮るためであった。妊娠中の女性にCT撮影を行うことは、胎児の放射線被爆の問題から、原則は禁忌である。故に、妊娠可能年齢の女性にCT撮影を行う際、必ず妊娠の可能性を確認せねばならないのだ。


「根拠は?」


 山本は頭をくしゃくしゃと掻きながら、問うた。


「えと…」


 栄一郎は言い淀む。山本の問いは指導医として至極当然のものであった。放射線被爆というリスクを患者に追わせてまでCT検査を行うにはそれなりの医学的根拠が必要だ。しかし、この状況に限っては医学的な根拠等無いに等しい。まさか、沙耶香に死神が憑いているのでと言うわけにもいかない。


「鑑別診断は?」


 答えに窮している栄一郎に山本はさらに畳みかける。


「当然わかっているとは思うが、緊急にCTを撮影するということは、そうまでして診断と治療を急がなければならない疾患を想定しているということだ。間先生、ご教授願おう。一条さんにいったいどんな緊急疾患の疑いがあるのか」


 こう来られると想定はしていたが、栄一郎は明確な解答を用意できていなかった。だがしかし、とにかく答えるしかない。


「えと、胃潰瘍とか、AGML(急性胃粘膜病変)とか...」


「それならば、CTではなく、GF(上部消化管内視鏡検査)を行うべきだ。CTではそれらの疾患の診断はつかない」


「もしかしたら、胃潰瘍の穿孔かもしれません」


「腹壁は柔らかく、反跳痛もない。これで潰瘍穿孔だったら、俺は消化器外科医をやめてもいい」


 栄一郎は反論をいったんそこで止め。改めて考えを整理する。


 山本先生の言うことはもっとも過ぎる。当たり前だ。この状況で、普通はCTを撮る道理はない。考えろ。何かないか?ただ単に無理を通してCTを撮ろうということではダメだ。仮にCTが撮れても、その中に一条が死ぬ原因が見つからない可能性もある。考えろ。一条が死に至る病態の可能性を。何か、俺と山本先生が見落としていることはないか?何か、何かピットフォールが.........ピットフォール?...上腹部痛...胃腸炎...ピットフォール...


 ピットフォールとは落とし穴という意味である。臨床現場では、見落としやすい疾患や病態を、しばしばピットフォールと呼称する。


「山本先生、虫垂炎の可能性はないですか?」


 栄一郎は絞り出すようにして思いついたその病名を口にした。


 虫垂炎:糞石や食物残渣、リンパ組織の腫大、腫瘍などにより虫垂内腔が閉塞し、二次的に感染が加わることで発症する、急性化膿性炎症性疾患である。世間一般で「もうちょう(盲腸)」と呼ばれているが、この俗称は18-19世紀に盲腸炎、盲腸炎周囲炎と呼ばれていた名残であり、後に実態が盲腸ではなく、盲腸に付随する虫垂であることが判明し、虫垂炎と呼称が改められた。


「なるほど、虫垂炎初期の心窩部痛というわけか?」


 虫垂は人体の右下腹部に位置する。したがって、虫垂炎の痛みも右下腹部に現れるはずである。だが、虫垂炎の初期には右下腹部痛がなく、心窩部(みぞおち)や臍周囲に痛みが出現する場合が多いのだ。


「研修医向けの臨床本を中途半端に読み込んだ新米が、いかにも考えそうな短絡的な鑑別診断だ。心窩部痛の患者の中に虫垂炎の患者が一体何%いると思ってるんだ?」


 山本の手厳しい指摘に、栄一郎はひるまず、続ける。


「一条の腹痛は発症からまだ1-2時間程度です。右下腹部痛が出現していなくてもおかしくありません。痛みの部位が漠然としている内臓痛だし、微熱だが熱もあります。これらの所見は虫垂炎に矛盾しません」


 栄一郎はしゃべりながら考えていた。虫垂炎の診断は熟練した臨床医でも難しいケースが少なくなく、診断が見逃され、治療が遅れることがある。ごくまれにではあるが、死亡に至り、医療訴訟に至ったケースもある。栄一郎がこの時点で出した結論は、沙耶香が今日ここで虫垂炎を見逃され、死に至るのではないかということだった。


「ぷ、ぷははは、いや、参った!!君、才能あるよ!!」


 山本は突如腹を抱えて笑いだした。栄一郎は一瞬戸惑ったが、ほっと安堵した。かなり苦しい論理展開だったが、なんとか山本先生に納得してもらえたようだと。が、


「上級医の神経を逆撫でする才能がね」


 山本はぴたりと笑いを止め、ゆっくりと立ち上がりながらそう言った。栄一郎は豹変した山本の表情をみて凍りつく。さきほどまでの教育的で優しい指導医はもうそこにはいなかった。

 殺すぞ、餓鬼が。

 山本の目は確かにそう言っていた。


「間、お前も見ていたはずだ。俺が触診で、右下腹部に圧痛がないことを確認しているのを」


 確かに栄一郎も見ていた。山本は右下腹部に圧痛がないことをかなり入念に確認していた。つまり、栄一郎が虫垂炎にたどり着くより遥かに早い段階で、虫垂炎を想定し、除外診断を図っていたのだ。


「間。俺はこれでも消化器外科を10年やってる。虫垂炎の診断が容易じゃないことくらい、俺もよく理解している。CTを撮っても初期だと画像所見がはっきりしないこともざらだ。俺自身が危うく見逃しかけた症例も、片手で数えるほどだがある。もし、本当に見逃して、万が一患者が死んだりしたら、もう消化器外科は名乗れない。それくらいの覚悟を持って毎日診療して、もう10年だ。そんなところにだ。医者になって1ヶ月の新米に、にわか仕込みの知識で知ったような口をきかれると、まじで神経にくるんだよ」


 一通り言いたいことを言い尽くしたのか、山本医師は声を落ち着け、再び笑みを顔に貼り付ける。


「しかしだ。お前の言う通り、虫垂炎の可能性も0じゃない。そこでだ。もし一条さんの同意が得られるのならば、お前の提案通り、腹部CTを撮ろうじゃないか。ただし、もし、お前の診断がはずれたら、このあと2ヶ月のウチの研修期間、俺はお前を特別待遇で教育してやろう」


 山本医師は笑顔だが、目は笑っていなかった。


 まずい......


 栄一郎は焦る。


 どんな目に遭わされてもいいが、俺の発言権がなくなるのはまずい。もしCTで診断がつかなければ、一条の死の原因が不明のままになる。その上、この騒動で俺の発言権がなくなれば、そのあと一条の死を阻止するためにほとんど何もできなくなる。どうする?謝って、頼み込んで、無条件でCTを撮ってもらうか?いや、この流れで山本先生がそんなことを許してくれそうもない。虫垂炎があることにかけるか?いや、でも...


「あの、同意じゃなくて、希望します」


 栄一郎がぐるぐると逡巡しているところに、意外なところから声が上がった。沙耶香であった。これには山本医師も目を丸くする。


「だって、間って、医者になったっていっても、まだ1ヶ月なんでしょ。だったら、間の意見なんてあってないようなもんじゃないですか。だけど、この痛いのはやっぱり心配だからCTは撮って欲しいんです。だから、間の意見は無視した上で、私は私の意思でCT撮影を希望します」


 沙耶香のあまりの物言いに、栄一郎は、味方に後ろから撃たれたような気分になったが、すぐに沙耶香の意図を理解した。山本も、やられた、という顔をしている。つまり、栄一郎のこれまでの発言はないものとして、患者自身がCT撮影を希望しているということになってしまったのだ。


「はあ、間先生。放射線科に電話してCTの準備を」


 山本は沙耶香に完全に意気をくじかれ、すっかり元の調子に戻ってしまった。


「向こうの準備ができたら、一条さんをご案内してください」


 そう言って、山本はぽんぽんと栄一郎の肩を叩いて、どこかへ消えてしまった。

 山本がいなくなったあと、栄一郎は小声で、感謝を述べた。


「えと、ありがとう。助けてくれて...」


 助けるつもりだった沙耶香に逆に助けられてしまった。栄一郎はその場から逃げ出してしまいたかった。


「なに言ってるの。感謝するのはこっちの方だよ。なんか理由はよくわかんないけど、間、私のために必死になってくれてたんでしょ。ふつうに嬉しかった。ありがと。と、いたたたた...」


 沙耶香は感謝の言葉を述べたあと、思い出したようにまた腹部を痛がり始めた。


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