第1話 再会

「うあああああっ」


 彼はそんな叫び声を上げながら飛び起きた。はあ、はあ、と息をつきながら、周りを見回す。都内のワンルームマンション。この4月から住み始めた彼の家だ。現実を識別し、彼は安堵ともにため息をつく。


また、あのときの夢か...


 次の瞬間、彼はあることを思い出した。今日がゴールデンウィーク明けの月曜日であることを。急いでスマホを起動して、時刻を見る。時刻は7時34分。


「やっべ」


 彼は大急ぎで身支度を済ませ、マンションの駐輪場から自転車を出し職場に向かった。通勤ラッシュピークの少し手前。サラリーマンたちはまだゆっくりと歩いている。が、しかし、彼はすでに大遅刻だった。なぜならば月曜日は早朝からカンファレンスがあるのだ。彼が全力で漕ぐ自転車は人混みをすり抜け、そこにたどり着いた。東亜医科大学付属病院。彼がこの4月から勤めている職場である。彼は自転車を裏口で乗り捨て、更衣室で白衣に着替え、階段を駆け上がり、目標地点に向かった。


「今週のスケージュールは以上です。次に、消化器外科学会の地方会の演題の締め切りが近づいており...」


 東亜医科大学消化器外科教室の月曜早朝カンファレンスは終盤に近づき、司会進行の清水医局長が連絡事項を読み上げていた。


「以上です。最後に、1年目初期研修医、間栄一郎先生!!」


 清水医局長は、カンファレンスルーム後方の出入口から遅刻がバレないように息を殺して部屋に入ってきた彼、東亜医科大学初期研修医1年目、間栄一郎にこれ見よがしに声をかけた。栄一郎は腰を低くして、カンファレンス参加者の目線より下に体を押し込めていたが、このように注目を集められては、逃げようがなく、全てを諦め、潔く立ち上がった。


「間先生、おはようございます。間先生のお持ちの時計で、現在の時刻は何時ですか?」


 清水医局長の問いに、栄一郎はしぶしぶ答える。


「8時5分です」


「先生の時計は正確なようですね。ということは、研修開始前のオリエンテーションで、当科の月曜カンファレンスの開始時刻について、私の情報提供に問題があったようですね?」


 栄一郎は法廷に立たされた被告人のごとく、清水医局長の尋問に答える。


「いえ、清水先生、私は午前7時開始と伺っておりました」


「なるほど、情報の授受に問題はなかったようです。では、なぜ、先生が1時間遅れて到着されたのか。間先生、昨晩はよほど良い夢でもみられていたのですか?」


 栄一郎は数十分前の思い出したくない記憶を振り返り、数秒沈黙した後こう答えた。


「いえ、ひどく悪い夢を見ました」


 清水医局長の説教は外来開始時刻の9時まで続いた。医者以前に社会人としてどうだとか、医者は他の業種から時間にルーズだと思われているだとか、初期研修医から医者の悪い文化だけ身につけられては困るだとか、これでもかというほど真っ当な内容の説教であった。いっそ理不尽な古い精神論でも押し付けてくれれば、栄一郎も心の救いがあったのだが、あまりに真っ当な社会一般常識を説かれたので、メンタルの逃げ道がなく、自己嫌悪の極地であった。


「あー、誰か助けてくれ」


 ぼろぼろのメンタルでなんとか午前中の業務を乗り切り、昼の休憩時間にようやく弱音を吐けた。


「間、気の効かない俺なりにりフォローしてやられるとすれば、この一言しか言えない。自業自得だ」


 地下の狭いロッカールーム。人口過密の東京で、私立医科大学の初期研修医に与えられるスペースはこんなものである。


「わかってよるよ。自分が悪いってわかってるから、逆に凹むんだろうが」


 栄一郎は同期の橋本俊輔の指摘に同意した。


「そんだけ、素直な性格してんのに、なんで1時間も遅刻するかね?」


 栄一郎は沈黙した。橋本俊輔がこの4月からの短い付き合いであるということもあったが、栄一郎にとって、何百、何千と見たあの夢は他人に口外できるものではなかった。それは過去にあった現実なのか、あるいは現実に彼が付け加えた空想なのか、あるいは最初から全て夢だったのか、彼にはもう区別がつかなくなっていた。一つだけ確かな事実は、小学6年生の夏、彼が親しかった同級生の少女が2学期から学校に来なくなってしまったことだ。友達の少なかった彼にとって、彼女は唯一の女友達だった。葬式には行った気がする。同級生の女子たちが泣いていたような気もする。彼女に恋心らしきようなものを抱いていたような気もする。しかし、その頃から繰り返し見るようになったあの夢のせいで、それ以外の記憶は日に日に薄れていった。その夢は、好きだった少女を失った少年が生み出した妄想なのか、それともその頃何かの精神疾患を発症していてそんな病的な夢をみるようになったのか。思春期の頃には、何度精神科の門を叩こうと思ったことか。しかし、結局彼は全て自分の中だけに秘めたまま現在に至る。


「そういえば、お前、今夜初当直じゃね?」


 すっかり自分の世界に入ってしまった栄一郎を俊輔は現実世界に呼び戻した。


「ああ、そっか、そうだった...」


「大丈夫かよ?ま、緊急オペでもない限り、眠れはすると思うけど」


「眠れるか...」


 眠ったら、またアイツがでてくるかもしれないけど...

 いっそ一晩中忙しい方がむしろよいかもしれないと、栄一郎は思った。


 午後6時、日勤体制から当直体制に移行した。東亜医科大学病院の夜間救急は、3次救急と2次救急を救命救急センターが、walk in(歩いて来院する患者)は症状によって、臓器別の各科が対応していた。消化器外科は腹痛患者を診ることが多い。午後6時10分頃、25歳の女性が上腹部痛で来院したとのことで、栄一郎と指導医の山本医師は夜間外来に向かった。


「君、真面目そうに見えて、けっこう大胆だよね」


 山本医師は道すがら朝の遅刻のことを持ち出した。


「すみません」


 栄一郎は今日何度目か、いやこの4月から何十回目かのその単語を口にした。1年目研修医の仕事というのはもしかして謝ることなんじゃないかとすら栄一郎は思うようになっていた。


「ま、大丈夫よ。俺も月曜カンファは何回かやらかしてるし。ただ、将来的に意識しておくべきことは、ある程度のヘマをやらかしても大目に見てくれる教室を選ぶってことだね」


 これは遠回しに、ウチの教室だったら、説教くらいはされるけど、放りだしたりせず、ちゃんと面倒はみてやるよ、という教室勧誘だった。地域や病院、診療科にもよるが、日本の医療現場は基本的には人手不足である。優秀な人材はもちろん欲しいが、多少見劣りする者でも頭数はいればいるほどいいのである。そんなやりとりをしているうちに、夜間外来の待合に到着した。


「お、なんか、あの子っぽいな」


 20代の女性が一人、待合のベンチに座り、上腹部を押さえながら、前かがみになっている。


「一条さやかさんですか?すぐ診察室にご案内しますので、もうしばらくお待ちください」


 山本医師は患者確認もそこそこに、診察室に入っていく。栄一郎も後に続くが、ふと顔をあげたその患者と目が合う。


「ハザマ?」


「イチジョウ?」


 2人はお互いの名を確認するように呼び合った。


「あんた、こんなとこでなにやってんの?」


「えと、仕事...」


 栄一郎は説明になっていない答えを返し、視線を宙に泳がせる。


「ああ、そうなんだ、と、あたたた...」


 その患者、一条沙耶香はその説明で一応納得いったのか、再び腹部を痛がり出した。


 診察は山本医師が行った。研修医と指導医がペアで診療にあたるとき、通常は経験を積むために研修医が問診・診察を行うものだが、栄一郎と沙耶香の間に流れる空気を察し、山本医師が診ることになった。ちなみに、山本医師の頭の中では、栄一郎が昔沙耶香にフラれたという設定になっていた。しかし、実際のところは顔見知りの期間が長いというだけで、さして深い関係ではなかった。実家の住所が近く、中学校は違ったが、小学校と高校が同じだった同級生。ただそれだけの関係だった。


「胃腸炎ですね。鎮痛剤と胃薬を出しておきますよ」


「ありがとうございます。あたたた...」


「間先生、私が薬局に薬を取りに行ってくるので、しばらく一条さんをお願いします」


「え?」


 栄一郎は山本医師の言っている意味がわからず、間の抜けた声を上げてしまった。診察が終わり、治療方針も決まったので、あとは彼女自身が夜間受付で薬をもらって帰ればいいだけだった。


「じゃあ、よろしく」


 山本医師はぽんぽんと栄一郎の肩をたたき、診察室を出て行ってしまった。どうやら山本医師は、最初は空気を読んで診察を買って出たが、途中からこのまま終わっては面白くないと少し小細工することにしたようだった。

 なんか勘違いされてると思ったけど、やっぱりか。と、栄一郎はため息をついた。

 この空気どうしよう。何話せってんだよ。栄一郎の頭がフリーズし始めた矢先、沙耶香が話を切り出した。


「間、本当に医者になったんだね」


「え、うん、ああ...」


 栄一郎は完全にきょどっていた。


「あんた、全然要領良くないくせに、ずっと勉強頑張ってたもんね。たまにノー勉の私とかの点数に負けたりしてたけど」


 栄一郎はその言葉に驚いて目を丸くした。自分が同級生から人並みに識別されていると思っていなかったからだ。あの夢を見るようなってから、自分は頭がおかしくなったんじゃないかという恐怖に苛まれ、だんだんと人と距離を置くようになった。中学校の頃には、いかにめだたず、学校の中で空気のような存在になれるかということだけを考えていた。しかし、高校の頃からなぜか急に勉強を始めた。友達もろくにいないので、勉強くらいしかやることがなかったというのもあるが、なぜ自分がそんなに勉強をするようになったのか、自分でもよくわかっていなかった。


「その、それって、やっぱり、トモエのため?」


 沙耶香の発したその名に、栄一郎は雷にうたれたように体を震わせた。


「トモエ?」


 栄一郎は声を震わせながら聞き返した。知っている。自分はその名前を知っている。大切な人だったはずなのに。好きだったはずなのに。なのに、なぜ誰の名前かわからないんだ?


「ちょっと、あんた、まさか、トモエのこと忘れたなんて言わないわよね?!」


 栄一郎の不自然な様子に、沙耶香は苛立つ。


「トモエが死ぬ前、あんたが一番仲良かったじゃない!!」


 沙耶香は怒りを露わにするが、死という言葉で栄一郎はさらにパニックになった。


「死んだ?...トモエが?...死んだのは...トモエ?... 死んだ?...トモエが?...死んだのは...トモエ?...」


 体と声を震わせながら、壊れたテープのように、トモエという名と死という言葉を繰り返した。


「あ、ごめん、間、今のは私が悪かった!!」


 栄一郎の異様な様子に、沙耶香は何かを察し謝った。


「そうだよね、トモエはあんたの目の前でいきなり死んじゃったんだもんね?思い出したくないよね?あの日のあんた、さすがにおかしかったもん」


 沙耶香は、栄一郎が、トモエの死のショックで、PTSDか何かを患ってしまったのだと解釈した。当の栄一郎は過呼吸になりかけているのを必死に気持ちを落ち着けて呼吸を整えた。


「一条...あの日って...お前もトモエが死んだ時...一緒にいたのか...」


 ばらばらと脳内に蘇ってくる記憶をつなぎ合わせながら、不足したピースを沙耶香に求めた。


「そっか、やっぱり、あの日のこと、覚えてないんだね?トモエが突然死した瞬間、トモエのすぐそばにいたのはアンタだけだったんだよ。私たちも近くにいたけど、アンタが騒ぎ始めるまで何も気づかなかったんだよ」


 沙耶香は、今この場でどこまで伝えてよいものか、悩みながらもあの日のありのままを栄一郎に伝えた。


「騒いでたって...俺はなんて言ってたんだ...」


 その問いに、さすがに沙耶香も言葉に詰まった。正直、その発言のせいで、当時の同級生たちは、栄一郎がおかしくなってしまったと考え、彼から距離を置くようになり、そして、今日に至るからだ。現に、沙耶香は高校3年間の間、栄一郎にこの話を切り出すことはなかった。なのに、今日、栄一郎が立派に社会人をやっているようにみえたため、栄一郎がトモエのことを吹っ切れたのだと解釈してしまい、十数年間避けてきたこの話題を切り出してしまったのだ。


「一条!!」


 言葉に詰まっている沙耶香にしびれをきらして、栄一郎は強い語気で問い詰めた。


「えと...その...トモエが...その...死神に...殺された...って...」


 沙耶香の言葉に栄一郎の混乱は極地に達した。夢の中のあの少女の死は現実だった。それも自分の目の前で死んだのも現実だった。ここまではありうることだと思っていた。栄一郎の夢の解釈は、「そんなショックな別れのせいで、頭の中でおかしな妄想を作り出してしまい、夢と現の境界がよくわからなくなってしまった」、そのあたりが一番現実的な解釈だった。だがしかし、彼女の死の瞬間から、空想する時間もなく、妄想する時間もなく、夢を見る時間もなく、彼は「あれ」の存在を識別していたのだ。

「あれ」は確かに存在していたということなのか...

 ぐるぐると、自分の深層の価値観が書き換えられているなか、異変は起きた。視界の中心にいた沙耶香が、ふぅっと目を閉じ、地面に吸い込まれるように倒れていった。


「一条?」


 栄一郎はさして慌てることもなく、冷静に声をかけた。なぜ冷静なのか?

 なぜならば、ただの悪ふざけにしか思えなかったから。

 なぜならば、あの日のトモエの真似をしているかのように思えたから。


「一条?」


 だが、数秒後、それが悪ふざけでも、真似でもないことを、栄一郎は認識した。倒れた彼女のかたわらに「それ」が立っていたのだ。


「それ」は全身を黒い布に包んでいた。

「それ」は黒い大鎌を携えていた。

「それ」は胸元には黒い水晶をぶら下げていた。その水晶の中には赤く光る「3」の文字があった。

 栄一郎は「それ」を見上げた。

「それ」の頭は黒いフードを被っていた。

 栄一郎は「それ」に問うた。


「お前は、誰だ?」


「それ」は答えない。

 しかし、「それ」は笑っているかのようみえた。

 皮膚も、肉も、目玉もない、空っぽの頭蓋骨の口を開けて...

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