第8話 残念な女

 シャワーを浴びようとユニットバスに入ると、お気に入りのシャンプー、トリートメント、ボディソープの香り(トップノートはライチ&アップル、ミドルノートがローズ&カシス、ラストノートがムスク&イランイラン)に混じって、本当に微かに栗の花の匂いがした。

 青酸カリとかは胃液に混ざるとアンズとかウメみたいな匂いがするけど、栗の花? こんな臭いになる毒物ってなんかあったっけ?

 くそー! 思い出せないよー! おちつけー! おちつけアタシー! 相手は上級者。もしかしたらなにか知らないヤバい新種の毒物が混ぜられてるかもしれない。お湯浴びるだけにしとこ。


 メイクをし直して、しっかり寄せて上げた胸元が強調される編上げコルセットに牛革のホットパンツ、網タイツとエナメルのニーハイブーツ、――踵には毒針が仕込んである。――に着替えて、ハンカチとポケットティッシュとスマホをハンドバッグに入れて、お気に入りのコスメブランドのメイクアップケースに相棒のダガーと分解したトカレフを入れて外に出ると、さっきのメタリックブルーの車がゆっくりと近づいてきた。運転席にはヤマトタケル。あ。改めて見るとヤバい。顔はいい。キリッとしてるの好みなんだよなぁ。

「おまたせ」

 助手席に乗り込み、ドアを閉めた瞬間から、車が走り出した。

「ちょっと危ないじゃない! いくらなんでもひどい」

「おれには向こうについたら仕事がある。早く片付けるべき仕事だ」

「アタシはー?」

「大人しく家にいるか買い物でもしてろ」

 と、投げて寄越されたクレジットカード。アタシ達にコードネームはあっても本名なんてないからもちろん偽名だ。


 kiyomasa katou


「カトウ、キヨマサ……? なんで?」

「語感が良かったらしい」

「それだけ?」

「ボスが決めた」

「アタシの保健所とか免許証は?」

 懐からカードケースを出して投げてよこす。

「物投げるヤツ嫌い」

「今は仕方ないだろう。許せ」

 キヨマサを睨むと、鋭い視線とぶつかる。

「アメリカンチェリーみたいな色の口だな」

「いい色でしょ。限定色なの。もう売ってないから貴重だよ。キスする?」

 と冗談で尖らせてみる。

「ん」

 運転しながら、こっちに顔を寄せた。

 ちゅ、と。一瞬だけ唇が触れ合った。いわゆるバードキス。

 キヨマサはもう真っ直ぐ向いて運転をしている。トゥクトゥーン! ってイントロ入っちゃうやつじゃん!

「え? マジでした?」

「お前が聞いたんだろう。おれは応えたまでだ」

「いや、まあ、そうなんだけど、さ」

 マジでするとは思わないじゃない? しかも、サラッと。何いまの。

「ついたか?」

 え? 質問の意味が飲み込めない。キヨマサが自分の唇を親指で拭う。ああ。

「ちょっとね。でもわかんないくらい」

「そうか」

「ルージュに毒薬混じってたらどうすんの」

「お前も死ぬだろ」

 あー。まあね。うん。何度か一人で頷いてるけど、なにも納得できてない。ちょっと混乱してる。フツーにキスしちゃった。しかも、嫌じゃなかった。ってゆーか、ドキドキしてる。

「こうやっておれが取っていくなら買ってやらなきゃな。その色がもうないなら近いのでも」

「な、なに言ってんのこれからもする気?」

「おれたちは恋人同士なんだろ?」

「それは、設定だから……! で、でも、こ、この色、好き?」

「ああ。お前によく似合っている」

 ぬっはあぁぁぁ! トキメキスナイパー!? アタシの乙女心が!! えっ!? 色じかけ、されてる!?

 この色はお気に入り。黒っぽい赤だけど玉虫色に光る、何年も前の秋の限定色。ここぞっていう時にして大事に大事に使ってきた。けど、似合うなんて初めて言われた。あ、ヤダヤダ。いきなり緊張してきた。心臓ドドドドっていってる。膝の上に置いた手に力が入る。あー! でもコイツは、なんでか知らないけどアタシを殺そうとしてる刺客。好きになっちゃダメ! 好きになっちゃダメ!


「仕事を早く終わらせるから、おれが帰ったら一緒に街へ行こう。口紅を買って、お前の好きなタピオカミルクティだのクレープだのを買う。それから映画か? お前の好きな恋愛漫画が映画になってるだろ。それでも観よう」


 トゥクトゥーン♡ アタシの好きを完璧に把握してる! 何で!? なんで知ってんの!? コイツキモい。ヤダー! 好きになっちゃう! 一年後に殺されるのに。

 え? なに? 惚れさせて、“あなたには、殺されてもいいわ♡”ってさせる殺り方!? あー! さすが上級者! さすがプロ! ターゲットに合わせて殺し方を変えるってワケ!? あー♡ いい♡ 夢を見させて、んで優しく殺されるならオッケーかも!


「うん♡♡」


 この瞬間からアタシのレンアイスキーオトメチックのスイッチが入った。

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