第860話

 馬車が駐屯地に戻ると、再び女王と別れ、さっきと同じ天幕に戻る。

 出発前まで休んでいて良いらしい。進軍が始まれば不眠となる為、カンナと私は昼食を取った後、夜まで眠って待つことにした。変な時間でも眠れる体質で良かった。カンナも侍女として働いている時に夜勤と昼勤が入り乱れることもあったとのことで、割といつでも眠れるらしい。じゃあそれぞれ休もう。

 此処の駐屯地は簡易施設ではあるものの、それなりの日数を滞在している上、人数も多いから厨房などはきちんと用意してある。先程の昼食も運んでくれた。多分、普通の兵らより豪勢な食事。気を遣い過ぎ……だけど、美味しい方が嬉しいからこれについても何も言うまい。

 なお、流石に私の普段の一食分に相当する量は運ばれてこなかった為、カンナが心配そうに食後に少し携帯食をくれた。腹の足しにした。でも私の収納空間にも食材はたっぷりあるからそんなに心配しなくっても大丈夫だよ。

 夕食も運んでもらった少し後、二時間以内に出発の号令が掛かる旨の通達があった。

 軽く身体を拭いたり着替えたりして身支度を整えれば、もう呼ばれるのを待つだけだ。カンナと二人で、ぼんやり座って待機していた。

「カンナ」

「はい」

 徐に呼ぶ。カンナはいつもと何も変わらない色で返事をくれる。その音が心臓の奥に染み渡るまで少し黙った。

「魔族と戦うのは初めてで、正直、何があるか全く分からない。真正面からやり合う可能性もあれば、奇襲や罠で攻撃される可能性もある」

 今回の魔族は、後者の方がありそうだなと思っている。だからこそ余計に、私は「何があるか分からない」と感じている。ゆっくりと顔を上げれば、私を無表情のままじっと見つめているカンナと目が合った。

「最大の警戒をするつもりではあるけど、私も、無傷で済むか分からない」

 表情自体は変わらないものの、カンナの瞳には不安と緊張が浮かび上がった。鏡を見つめるようだ。私にはカンナを安心させる言葉を吐けない。私自身が、不安で緊張しているから。

「君を戦わせるつもりは無い。どんな状況になっても、私の助けに入るのは禁止」

「それは」

 彼女らしからず反論の意図で言葉を挟んでくる。分かっていたから、軽く手で制して苦笑した。

「と言っても結局、『何処まで我慢するか』って感じだよねぇ」

 死んでしまうまで見守れとは言えないよ。だって、守りたい思いがある人は、死んでほしくないから守りに走るんだから。

 だけど、怪我をしたくらいで戦っている真っ最中に来られたら、私も攻撃を止めなければならないので困ってしまう。もう少し細かい線引きが必要だ。

「私が両膝を付くか、倒れてしまうまで、禁止」

 死んでいないけど、もう戦えない状態。

 私としても、「そうなってしまったらカンナが入ってくる」って思うと、この子を守る為に踏ん張らなきゃって思える気がする。まあ、そんな危機的状況には陥らないのが一番なんだけど。

「見守るのは、つらいことだと思う。……だけど私がまだ負けてない内に、横入りするのはダメだよ」

 私のプライドがどうとかじゃなく、カンナが危ないのでね。そう思ったものの、そう言ってしまうとカンナは受け入れないだろうから、言い方を選んだ。数秒の沈黙の後、カンナが頷く。

「承知いたしました。ですが助力が必要とお感じになった際には、躊躇わず私をお呼び下さい」

「うん。いつも頼りにしてるよ」

 これは本音。そうじゃなかったら、こんな場所まで連れてきていない。

「怖い話をしてごめんね。私も不安で、色々考えちゃうだけなんだ」

 手を握って弱々しく呟けば、カンナは両手で私の手を優しく握り返してくれた。

「どんな時も、私はお傍におります」

「うん……ありがとう」

 怖くて仕方がない。

 それを、カンナにしか言えない。

 縋るように、ずっとカンナの手を握り締めて俯いていた。今だけは少し甘えたい気分。カンナは何も言わずに付き合ってくれた。カンナだって、私みたいな規格外の魔力を持たない身で前線に行くんだから、きっとずっと怖いのにね。甘えさせてもらってばかりで情けないな。


「――この仮面、別の意味でも便利だな」

 いよいよ出発となって、身支度の最後の仕上げとしてカンナに仮面を付けてもらいながら呟いた。これがあれば、もし怯えて涙目になったとしても隠せるね。

「私は、アキラ様の御顔が見えないことが、少し不安です」

 カンナが私を見上げてそう言った。不安と言いつつもその声は優しくて、何処か私を甘やかすようだった。

「ごめんね。二人きりの間は外すから」

「はい」

 出発以降、どれだけ二人きりになるチャンスがあるかは分からないけど、タイミングがあればね。……まあ、仮面も付けっ放しだと蒸れるし。長時間になるなら、偶には外したいよ。

 近くに立つカンナが無性に愛おしくなったので、意味も無くこめかみ辺りに口付けを落とした。きょとんとしている。

「ごめんね。ちょっと甘えただけ。行こうか」

 照れ臭そうに口を引き締めながら、カンナが会釈した。かわい。

 ちなみに、モニカ達には今の状況を連絡していない。出発の時間を敢えて知らせると余計に不安にさせそうだから。この遠征が長引くと確定した場合のみ、連絡することとする。

 天幕を出て、軽く空を仰ぐ。星空が綺麗だった。雨で無くて幸いだ。私の気分の問題でね。

 案内を受けて移動すると、駐屯地内の広場のような場所でコルラードとベルクが士気を上げるべく兵を並べ、言葉を掛けていた。お話が終わるまで少し待機して、兵が各自配置に就くのに合わせ、私とカンナも馬車へと移動する。

 馬車の中に既に入っていた女王は、先程よりも一層、緊張した面持ちだ。

 かくいう私も茶化すほどの余裕はない。無言で向かい側に座った。

 駐屯地からまず国境の門。先に手続きは済んでいるとはいえ、ちゃんと女王の証を確認した上で、門の開放と軍旗の貸与がされる。

 門を抜けた後はもうマディス王都へ向かって一直線だ。一段と早い速度で移動し始めた馬車。馬も大変だよなぁ、こんな大きな馬車を、長時間運ぶなんてさ。

 小さく窓を開け、先程よりずっと早く進む景色を見つめた。

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