第811話_雨
雑談している間に、元気も出てきた。良かった。お茶を飲み終える頃には微かな怠さが残るだけで、ほとんどいつも通りの体調だった。
「よーし、帰りましょう~」
朝帰りの時は手を繋ぐ――のが常だけど。今日は雨なので。傘を差す私の腕に掴まってもらった。侍女としては主人に傘を差したいだろうが、デートの時は我慢してくれるのだ。従順で優しい侍女様です。
「でも霧雨って、あんまり傘の意味がないねえ」
アパートの軒先に到着して、傘を畳む。全身がしっとりしている。帰り道、小雨から更に細かい雨になった。激しくなるよりは良いんだが、雨粒が軽すぎて傘の横からふわふわ入ってくるんだよな。カンナがすぐにハンカチを差し出してきた。階段を上がればもう部屋に着くのに。
「帰宅後すぐにお召し替え下さい、ご用意いたしますので」
「うん。カンナもね」
真面目な侍女様から「はい」が返るまでに一拍あった。主人が優先なんだなぁ。私が先に着替えるから、その後、早めにお願いね。
とりあえず受け取ったハンカチで顔は拭いた。カンナがおろおろしているので。放置したらハンカチを奪い返して自分で拭いてきそうだ。この一生懸命な侍女様の仕事を無駄に増やしてはいけない。
「ただいま~。遅くなってごめんなさい」
帰宅したら女の子達はダイニングテーブルの方に集合していた。
「おかえり。あー、やっぱ濡れちゃったかー」
「早く着替えていらっしゃい」
「はーい」
即座に謝罪を入れてみたものの。誰も怒っていなかった。大人しく寝室に下がり、カンナに用意してもらった服に再び着替える。
髪は前髪がちょっと濡れたくらいだったので、自分でサクッと乾かした。
「カンナも早く着替え……てるね」
振り返ったら違う服になったカンナが待機していた。先に私が着替え始めたはずなのにどうして? 特技か?
まあ何でもいいか。風邪を引かないでくれればよい。ちなみにカンナの髪はほとんど濡れていなかった。大丈夫そう。
「朝ごはーん」
外泊後の朝食はお店で買ってきたサンドイッチなどにすることが多い。
それを知っているからみんなも朝食を作らずに待ってくれていた。待たせてしまった分、お腹を減らしているだろうと帰宅直後に全て渡したのに。みんなはテーブルの上に並べるだけで、着替えを待ってくれていた。優しい子達だ。
「アキラちゃん達の分のスープ、今温めてるから待ってね。ルーイが作ってくれたんだよー」
「ありがと~。いい子だねぇ、ルーイ」
リコットが立って鍋の前に居ると思ったら、スープを温めてくれていたのか。私のメモを真っ先に見付けたルーイは、女の子達がお腹を減らして切なくならないようにとスープを作ってくれたらしい。本当に素晴らしい対応をありがとう。改めていっぱい撫でた。
「あなたは三十分で起きられたのね」
「うっ、……が、がんばりました」
全員がテーブルに着いて早々、ナディアがぽつりと呟く。怒られる覚悟をして慌てて背筋を伸ばしたら、何故かナディアが戸惑った顔に変わり、その隣でリコットが笑った。
「いや、今日はナディ姉もちょっと寝坊してたよ。雨の日って怠いよね。アキラちゃんは特にしんどいだろうなって話してたんだ。だから心配してるだけで、誰も怒ってないよ」
「あ、あぁ、そか。ごめん変に身構えちゃって」
気遣ってくれたのに怯えた顔をしてしまった。変に困らせてごめん。
「ナディも雨は眠いの?」
「そうね。やけに気も滅入るわ。私は癖毛で髪が広がりやすいし、尻尾も湿気でむずむずするの」
「あ~それは大変だ」
思えば雨の日のナディアは、頻りに尻尾を撫でている。猫ちゃんの毛づくろいだ~ってニコニコ眺めていたが、本人は可哀相な状態だったんだな。
「今日のお買い物は、天気次第にするよ」
「それがいいわね」
午後に晴れてくれるなら買い物。午後も雨なら明日以降に延期です。
ということで、朝食後。私は二度寝の時間を取るべく、カウチに向かう。
「カンナも疲れてるでしょ、適当に休んでてね」
「はい、お気遣いありがとうございます」
雨の匂いも音も今日は控え目だからいつもよりは辛くないし、眠気も酷いわけじゃない。だけど何となく眠っていたいので、ごろん。なお、侍女様は「休んで」と伝えても私が寝転がったら上掛けを整えに来てくれて、それを終えても寝室に行く様子は無く、ソファの方に留まっていた。休まないのね。
「……そういえば」
頭の中だけでそんな言葉が
「え、何だったの」
「続きが気になる」
「ふふ」
女の子達がくすくすした気配を、遠くなる意識の端で感じた。
「――アキラ」
不意に私を呼ぶ声が聞こえて、びくりと身体が震えた。呼吸が一瞬できなくて、ひくりと喉を鳴らす。数拍遅れてから、大きな心臓の音が身体中に響いた。ぼやけた視界の中、驚いた顔でナディアが私を見下ろしていた。
「ごめんなさい、驚かせてしまったかしら。もうすぐお昼よ。……大丈夫?」
「だ、い、じょうぶ……」
努めてゆっくりと呼吸を繰り返し、うるさい心臓を落ち着けようとした。リコットとカンナも、ひょいと覗き込んでくる。
「さっきまでフツーに寝てたのに。びっくりしちゃったの?」
「そう、だと思う、いや、ナディが悪いわけじゃなくって。なんか……違う誰かに、呼ばれたみたいな錯覚、した」
「違う人?」
まだ上手く声が出なくて、頷くことで一旦応えた。ゆっくり息を吸い直して、小さく咳払い。
「元の、世界の人。声も似てないのにな、なんでだろ……」
妙に重たい身体を起こして、額を押さえた。自分がどちらの世界に居るのか分からなくなって酷く混乱した。存在が曖昧になるような、足元が無くなるみたいな感覚も同時に湧き上がって――そうか、召喚されたあの魔法の感覚も一緒に思い出しちゃったんだ。
「はあ。また飛ばされたのかと思った。びっくりした」
「そりゃビックリするね。落ち着いてからでいいよ。調理もこれからだし。お腹は減ってる?」
「うーん、米と肉が食べたい」
「しっかり減ってるねぇ」
明るい声で笑ってくれるリコットのお陰で、私も笑みを浮かべて顔を上げることが出来た。
「ナディも、逆に驚かせてごめんね」
「いえ。あなたが悪いわけじゃないわ」
優しいね。まだ少し身体を固くしているナディアを慰めるように、背中を撫でておいた。
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