第798話_誘い
「この後はお休みになっても私がお運びできますので、楽になさって下さい。湯には浸かられますか?」
身体を流し終え、軽く水気を取ってくれた後で、カンナが言った。一瞬何を言われたのか分からなくて、ぱちりと目を瞬いて彼女を見上げる。
「えぇ? そんな無茶な」
「私には身体強化がございますから、アキラ様ほどであれば問題ございません」
「あー」
そういえばそうか。身体強化は、力持ちにもなるからなぁ。でもカンナに運ばれる自分を想像して、うん……ちょっと恥ずかしい。渋い顔になった。
「どうしようもない時以外は、遠慮する……」
私の反応がまた可笑しかったらしく、カンナが短く俯いた。
「ちょっとだけ浸かる」
「不調を感じたら、すぐにお呼び下さい」
「うん」
見送るような言葉だったものの、私が湯船に浸かって身体を落ち着けるまでピッタリ傍に付いてくれていた。転びそうになったらまた抱き止めようとしていたんだろう。
湯船から見上げた空は、まだ明るくて青い。今日は少し風があって雲も多いけど。それはそれで見応えがあるな。ぼんやりと空を眺める。
視界の端では、カンナが洗い場を掃除していた。
うちの女の子達はみんな使った傍から洗うような気質をしている為、いつも綺麗だ。助かるね。
空を見上げながら、そうしてカンナを横目に眺めていたつもりなんだけど。ふっと意識が遠のいて頭がカクンと後ろに落ちかけた。ハッ。寝るところだった。此方を見ているカンナと目が合う。しっかり見付かった。
「アキラ様」
「う、うん、もう上がる」
叱られる前に宣言した。身体を起こすと、素早く駆け寄ってきたカンナが手を貸してくれる。一人で立てないほどではないが。甘えた方が安心してくれるだろうから、手を借りて歩く。
脱衣所まで来たカンナに身体も拭いてもらって、服まで着せてもらった。
「カンナ」
「はい」
顔を上げたカンナに少し身を寄せる。カンナは珍しく仰け反ることも強張ることもなく、近付く私の瞳をじっと見つめていた。多分、私の体調を気にし過ぎて、距離が詰まることへの意識が希薄だったんだろう。
少しだけ角度を変えて、頬に触れるだけのキスを落とした。
「明日の夜、デートしようよ」
至近距離で目を合わせる。カンナはまだ私の瞳を見つめていて、いつもより照れや動揺が少ない。むしろ、悲しそうに眉を下げた。
「アキラ様のお身体が心配です」
「それまではちゃんと、安静にするよ」
カンナの視線が少し揺れて彷徨う。返答に困っているようだ。言葉を選ぶ時のカンナの癖。
「断っても構わないんだよ、カンナ。だけど」
今まで私の誘いをカンナが断ったことは一度もない。主人の求めだからか、それ以外の理由かは分からない。興味もない。ただ、もし理由が『断りにくい』だけなら、悲しいことだ。そう思っているくせに後ろ向きな言葉に食い下がる私は、いつも卑怯だな。
「私を諦めさせるにはそんな優しい言葉を選んじゃだめだ。つめたい言葉で振ってくれなきゃ」
「そのようなこと、私には……」
出来ないって分かっていて、こんなことを言う酷い主人。いつも優しくて甘い侍女様。再び身体を少し屈めて、額にキスを落とした。
「明日の夜までに、返事をちょうだい。今はいいや。髪を乾かして、もう休む」
可愛いカンナに夢中になって忘れかけていたが、目を瞬いた時にふんわり眠気が襲ってきた。あまり長くは保たなさそうだ。カンナも私の瞳の様子から察したらしく、やや慌てた様子で頷いて椅子を傍に置いてくれた。座ります。
そして普段ならこのまま自分の風で乾かし始めるのだけど。
「リコットかラターシャを呼びますので、魔法の使用はもうお控えください」
「うーん……分かった」
魔力不足や魔力回路の負担は無いと思うが。魔法で疲れたのは事実だし、カンナは本当に心配みたいだから頷く。
急ぎ足でカンナが脱衣所を出て、戻る時に連れていたのはリコットだった。私と目が合った瞬間、彼女はホッとした様子で笑みを浮かべる。
「具合が悪いわけじゃない?」
「うん、カンナがもう魔法だめって」
「はは、そっか」
呼びに行ったカンナの説明が簡潔すぎて心配しちゃったみたい。いや、カンナ自身がもう心配しているから、どう伝えても心配が伝染しちゃうんだろうな。
しかし。乾かされながらまた寝そう。既に眠い状態で、女の子達に優しく触ってもらうと本当にやばい。
頻りに目を瞬きながらなんとか起きていたら、出入口からひょいとラターシャが顔を覗かせて目が合う。せめて笑みで応えたかったのに、もう表情筋が動かなかった。ラターシャが笑った。
「アキラちゃんが寝そうだよ」
「ありゃ」
囁くようにラターシャが言うと、リコットが私の顔を覗き込んでくる。目は開けている。起きているが。反応できない。私の限界状態を察して、リコットも眉を下げて笑った。
「アキラちゃんって時々、小さい子みたい。うわーっと遊んで、急に糸が切れたみたいに寝ちゃう」
「あはは、分かる」
勝手なことを言われています。不満を訴えるべく、ううん、と唸るけど。それすら寝言みたいだって一層笑われるだけだった。そうこう言って遊ばれている間に髪が乾いた。
「寝る……」
「夕飯が出来たらまた声を掛けるね」
「んん」
のそのそと寝室に入れば、後ろから入ったはずなのに先にベッドに到達したカンナがシーツを整えてくれて、上掛けを捲ってくれた。入ったら当然のように掛け直してくれる。されるがまま。
目を閉じてしばらくしても。カンナの気配は私のベッド脇から動かない。私が眠りに就くまでを見守るらしい。
カンナも、実家に居た使用人達も、こうして眠る時に近くに居ても気配が邪魔にならないというか、普通の人より気配が薄い。何か極意があるのだろうか。私みたいな黙っていても存在がうるさいやつに同じことは出来ない気がする。……そういえば、みんな元々の性格が静かだったかも。そういう違いかな?
ぐるぐるとよく分からないことを考えている。あんなに眠かったのに、寝付くまでは少し時間が掛かった。
あれ、私がお風呂に入る前には女の子達は荷造りで寝室をうろうろしていたはずなのに、今は誰も入ってこないな。
いや、違うか。私が仮眠するって言ったから、ナディアは「早めに」って荷造りを促したんだ。仮眠している間に寝室を出入りして起こさないように。だからあの流れでそういう話になったのか。今更気付いた。
女の子達は気遣いが上手だな。私も見習えたらいいんだけどなぁ。
溜息のつもりで吐いた長い息が、何故か眠りへの呼び水となり、ようやく眠り落ちることができた。
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