第783話

「――やめなって。カンナの時とリコお姉ちゃんの時は絶対だめ」

「だけど、心配だし」

「それならラターシャ以外が確認するから」

 不意に聞こえてきた子供二人の声に、思わず笑い声を漏らす。やや遠い声だったので、脱衣所よりも向こう側だろう。そういえばキスする頃から消音魔法をしていて、こっちの音が向こうには聞こえていないのだ。今の私の笑い声が聞こえていたら、心配なんか掛けずに済んだのにね。

 消音魔法を解いて、カンナを見上げた。

「すぐに戻ります。そのままお待ちください」

「うん」

 何も言わずとも意図を理解してくれたカンナが、脱衣所に向かう。最初の扉が開いてもラターシャ達の姿はない。やはり脱衣所よりも向こう側か。浴室の扉が閉ざされてコンマ数秒後。ラターシャが「あ、カンナ」と言った声が微かに聞こえた。

「アキラ様の入浴をお手伝いしております。終わり次第、戻ります」

「そっか。うん、分かった。何かあったら呼んでね」

「はい。ありがとうございます」

 短い会話を終え、足早にカンナが戻ってきた。滑らないでね。俊敏すぎて心配になる。

「お待たせいたしました。寒くはありませんか?」

「平気だよ」

 そう答えたのに。カンナはそれでも心配だったのか、私の背中を丁寧にお湯で流して温めてくれた。あったかい。

 途中だった洗髪を進め、流してもらった後。水気を取ってくれている時にカンナと目が合う。何となく嬉しくてニコニコする。

「ねぇ、カンナ」

「はい」

「少し屈んで、こっちに」

 彼女の目は明らかに狼狽した。私が何を求めているか、正確に理解してしまったからだ。

「あ、あの」

「少しだけ。おねがい」

 流石に洗われている真っ最中に、さっきみたいな長くて深いものを求める気はない。軽く触れたいだけだ。じっと見つめれば、カンナは僅かに視線を泳がせた後、求めに応じて身を屈めてくれた。可愛くて強く引き寄せてしまいたくなる思いはちゃんと飲み込んだ。宣言通り『少し』の、触れるだけのキスをした。

「ありがとう」

「いえ……」

 頻りに目を瞬いたカンナが、いつもよりちょっと急いだ様子で身体用の石鹸を泡立て始める。動揺しているのが見て取れてニコニコした。

 でもその後は特にちょっかいを掛けず、大人しく洗われました。

 本音を言えばもっと構いたかったが。これ以上はカンナが疲れてしまうよね。今日はもうやめる。大人しく湯船に浸かる私を見て、カンナが小さく息を吐いていたことにも気付かぬふりをした。

「もう添い寝はしなくていいわよね」

「はい。一人で寝ます」

「あはは」

 夕食の席で長女様から、サービス終了のお知らせをもらった。今朝のリコットとのイチャイチャのせいだろう。そもそも私が夜まで仕事をしないように抑止する意味と、夜中に抜け出して仕事しないように拘束する意味だったから、もう心配していないってことでもある。多分。

 幸いこの日も私はすぐに寝付くことができた。勿論、疲れていたのだと思うけど、連日甘やかしてもらったお陰もあるかもしれない。

 そうして迎えた翌日の朝食後。

 見張り役のナディア以外の全員を、ジオレンのアパートに送る。

「お昼前に一旦、迎えに来るからね~」

「はーい」

 お願いした買い物や追加の荷造りは午前いっぱいをかけてゆっくりやってもらえばいい。時間が余ればのんびり待っててもらって、逆に足りなければまた午後も動いてもらう。その辺りはお昼に迎えに来た時に改めて相談しようということで話がまとまった。

「ただいまー」

「おかえりなさい」

 スラン村に戻ると、ナディアは素っ気ない声で私の方を見もせずに返事をした。それでも私は「おかえり」が嬉しくってしばらく噛み締めた。当然ナディアには怪訝な顔で眉を寄せられる。まあまあ、気にしないで。勝手な感傷です。

 頭を振って、軽い調子に聞こえるようにと明るい声を出した。

「じゃ、行こっかー。怖かったらいつでも言ってね。我慢せず」

「ええ」

 実はナディアを連れて空を飛ぶのは初めてである。

 ラターシャは初めての時、悲鳴を上げていたんだよな。まあ、あの時は一気にすごく高く飛んだせいだけど。

 さておき、飛ぶか。ナディアを引き寄せて、ゆっくり高度を上げた。

 悲鳴などは無く静かだったのに、ナディアは両手でぎゅっと私の服を掴み、尻尾が私の太ももに巻き付いた。猫耳も、頭と一体化するかのようにぺたんこだ。可愛すぎて私が悲鳴を上げそうだった。

「転移でも行けるんだけど、ごめんね、縦穴の状態を見直ししたいから」

 昨日は一気にズンズン掘ってしまった。結界で支えているから形が崩れるとは思えないものの、雑になっている箇所があるかもしれない。見直しが必要だ。

 穴を見下ろせる位置まで来ると、ナディアは一層私の方へ寄り添うようにしながら身を縮めた。明らかに怯えている。

「怖い? やめとく?」

 可能な限り優しい声で問い掛けたものの、この聞き方はナディアを強がらせてしまうだろうか。いや、タグで確認して、強がりを言うようなら点検は中断すればいい。ぺたんこの猫耳を見つめながら、彼女の言葉を待つ。

「……少し不安なだけ。あなたがいるから、大丈夫」

 彼女の言葉は『本当』だった。また可愛くて悲鳴を上げそうだった。何とか飲み込んで、片腕で支えていたナディアの身体を両腕で抱き直す。私に守られていることが少しでも伝わるように。

 慎重に縦穴の方へと移動し、その中を降下する。よく見えるように、左右に一つずつ照明魔法を浮かべて壁を照らした。

 正直、進んでいくにつれてナディアは更に縮こまってしまうと予想していた。

 ところが。次第に猫耳をピンと立てて、むしろ周囲を興味深そうに見つめ始めた。時々鼻をスンスン、と鳴らしている。匂いチェック? 何か不思議な匂いがするのかな。

「マシになった?」

 いっそ「楽しくなってきた?」と問いたくなるような様子だが、その聞き方は何となく嫌がりそうなので控えた。ごく稀に働く勘です。私を見上げたナディアが、ぱちぱちと瞬きをした。少し幼さすら感じる、無垢な表情をしている。可愛い。

「不安がゼロではないけれど……少し興味深いわ。地中というのは、こういう空気なのね」

 ふむ。確かにこの世界で普通に生きていたら街中しか知らないか。洞窟にすら、入った経験は無さそうだ。

 だから独特な土の匂いと空気が、ナディアには随分と新鮮だったみたい。何にせよ、少し気が紛れるなら良かった。

 耳や尻尾を頻りに動かして周囲を見つめる愛らしいナディアを、いつまでも見ていたいけれど。自分の作業もきちんとこなさないとね。彼女を窺う意識を緩め、土壁の状態チェックに集中した。

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