第711話

 夕食の準備を始める少し前に、リコットはもう魔法の練習を止めてしまった。

 桶の中に紙は残されておらず、彼女の手の中でくしゃくしゃに丸められている。ナディアも横目でそれを窺っていたが、何も言わなかった。私も何も言わなかった。……多分もうリコットは、風の攻撃魔法に成功している。

 本人が言わないなら、変に突かないであげよう。しかし、攻撃魔法までその日の内に習得とは。末恐ろしいよね。私が規格外だからぴんと来ないこともあるだろうが、今までに出会った誰よりも、彼女の魔法の素質は高い。

 偶に、もっと良い環境で学ばせてあげたいなーと思う。いや、彼女が平民であることを思えば私の傍は充分に恵まれた環境だろうが、私が設置した練習装置では、大きな攻撃魔法は使えない。今のリコットには少し窮屈な練習場所だろう。

「あ、そうだ。土属性の桶には、消音も付けておこうかな」

 私は徐にソファから立ち上がって呟く。リコットが顔を上げた。

「さっき私がやった時、石が桶にぶつかって大きな音が鳴っちゃったでしょ? あれじゃ夜には練習できないからね」

「確かに。助かる、ありがとう」

 私の場合は少し離れた場所からやった為、本来よりも大きな音になったというのもある。普通に使っていれば家の外にまで漏れるほどの騒音は出ないだろう。だけど魔法の進捗を隠したがるリコットにとっては少しの音も不都合だと思った。

 近い内に、石の加工の練習も聞いてくるかな。教えてあげられるよう、早めに準備しておかないとね。リコットの成長が早くって私の準備がいつも後手後手だな。申し訳ない。

 念入りに消音魔法を掛けて、試しに思いっきり私の魔法で石つぶてを桶の中にぶつけてみた。音は無かった。よし、完璧。

「あ、カンナ」

「はい」

 振り返った時に視界に入った可愛い私の侍女様が、さっき貸してあげた魔法陣の教本を熱心に読んでいたので思い出した。カンナはそんな状況でも私が呼べばすぐに顔を上げてくれる。

「私が用事を頼む時以外は、好きに勉強していいからね。工作部屋の紙や作業台も、使って構わないよ」

「……ありがとうございます。使わせて頂きます」

「うん」

 カンナは普段、ほとんどの時間リビングで待機していて、私が過ごす工作部屋には勝手に入ってこない。そして大体が『待機中の暇つぶし』みたいな感覚だから、いつでも手が放せるようなことしかしない。

 その為、敢えて「勉強してもいい」「工作部屋を利用していい」と許可を出しておく。もしもカンナが集中してしまうことがあっても、それ自体が私の許可と指示の範囲内だからね。

 正直、カンナが魔法陣を色々書けるようになるなら私にも都合がいいんだよな。面倒な部分を手伝ってもらえそうだし。ただ、本人が魔法陣の勉強に飽きちゃったら変に無理をさせることになりそうなので、今は伝えない。

「そろそろ、夕飯の用意をしようかな。みんなお手伝いお休みしてもいいよ~」

「あはは、大丈夫、やるよ」

 今日はみんな一日中、魔法の練習に熱中していたから、気疲れしているかもと思ったんだけど。最初に返事をしたラターシャを先頭に、全員がわらわらとキッチンにやってきた。良い子達だなぁ。

「りんご剥いて~」

「私がやる!」

 ルーイが両手を伸ばしてきたから、小さな手にりんごを預ける。可愛いねぇ。

 ちらっとナディアとリコットを見る。ナディアは呆れた顔で、リコットは苦笑いで頷いてくれた。ルーイまたはラターシャがナイフを持つ時は見ていてほしいんです。勿論、そこまで心配する必要が無いのは分かっている。ルーイは小さな時から下働きをしていて、組織でもずっと食事を作っていた。ラターシャもお母さんの看病をしている間ずっと家事をしていたんだろうし。

 それでも私は見守っていたいし、二人にも、見守られるのが当たり前の子供になってほしい。だがルーイとラターシャは多分そういう私の気持ちを知っていて付き合ってくれているので。一番私が子供だなと思うこともままある。

「りんご使うレシピ、どれ……?」

「はは、デザートだよ」

 晩御飯と一緒に食後のデザートを作るものだから、混乱させてしまった。今日のデザートはアップルパイです。パイ生地の準備はもう出来ている。そう説明すれば、みんなはようやく納得した様子で頷いた。

「考えてみればいつも、レシピはあなたの頭の中ね。先に教えてくれてもいいのよ」

「あー」

 昼と夜は必ずみんなも調理のお手伝いをしてくれているが、何を作っているのかを私が説明することは少ない。野菜を洗ってほしいとか皮を剥いてほしいとか切ってほしいとか炒めてほしいとか。作業だけを伝えて、みんなはその指示と材料から何となく予想している状態。最初から答えを伝えていれば、今みたいに混乱させることも無いはずなんだけどね。

「変なとこ、面倒くさがりだよね」

「ははは」

 リコットの的確な指摘に笑うだけで応えた。「変なとこ」と言われる通り、説明や手間の全てが苦手なわけじゃない。思えば元の世界でも仕事のプレゼンとかは好きな方だったし、こっちの世界でも、作業は自分で勝手に増やして忙しくしている。料理も好きだし、女の子達をちまちまと構うのも好きだ。女の子達に魔法講座をするのも億劫に感じたことは無い。となると全てにおいて面倒くさがり、というわけでもないのだろう。……自分のことだが、線引きはよく分からない。

「教えるのも実は面倒って言われたら申し訳なくなるから、それは良かった、のかな……」

 ラターシャが苦笑する。なるほどね。何にも考えないで口にしていたが。優しいこの子達は私のストレスになると思ったら魔法について聞きにくくなっちゃうね。結果オーライだが伝えておいてよかった。

 するとナディアが「嘘でもないようで良かったわ」と言った。私の反応で思考を読み取ったらしい。恥ずかしいからやめて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る