第694話

 女の子達も全員、入浴を済ませた頃。不意にカンナが寝室を覗いた。アキラが心配なのだろうと女の子達は思ったが。いや、それも理由の一つだろうが、一番の理由はアキラが『眠っていることを確認する為』だった。慎重に寝室の扉を閉じると、カンナがその扉に両手を添えた。一秒後、扉とその付近がぼんやりと光を帯びる。魔法であることは分かるものの、それが何なのか解析するような力は女の子達には無い。

「カンナ、今の何?」

「防音魔法です。アキラ様の扱うような『消音』ではないので、大きい声だと届いてしまうことは、ご留意ください」

「うん?」

 早口にカンナはそう告げると、足早に女の子達の居るソファに座り直した。

「――先程、アキラ様はミシェルという女性とお会いになっておりましたが、……どうやら」

 いつもよりずっと低い静かな声で、簡潔にカンナは告げた。アキラと女性が交わしていた会話から察するに、女性はレッドオラム出身であること。そしておそらくはあの騒動で、夫を亡くした女性であること。その報告に、女の子達の表情が、凍り付く。

 先日、夜遊びから帰ったアキラの様子を思い出し、その切っ掛けがミシェルで間違いないと、確信したからだ。

「そっ――」

「大きな声はだめよ」

 思わず声を震わせたリコットを、即座にナディアが止める。こうなると思っていたからカンナはおそらく先に「ご留意を」と言ったのだ。リコットは言葉を飲み込むが、感情は、飲み込めるものではなかった。彼女が静かに続けた声は、震えていた。

「……そんなの、アキラちゃんが悪いわけじゃないじゃん。そもそもアキラちゃんに、この世界の危機だって何にも関係ない」

 唸るように言ったリコットと同じく、他の子らも悔しそうに表情を歪めた。

「きっとアキラも、頭ではそう考えているでしょう。それでも胸を痛めるから、あの人は……」

 何と続ければ良いのか分からなくて、ナディアは言葉を止める。隣に座っていたルーイの目から涙が零れ落ち、それに気付いたナディアは、彼女を抱き寄せてやった。

「ほんの少しも、悪党なんかじゃないよ」

 ラターシャは両手で顔を覆い、手の中でそう呟く。

 いつもアキラは自らを『悪党』だと言う。けれど何の罪も無いはずのことに苦しみ、誰かの痛みに寄り添って悲しむさまを、どう悪党と思えと言うのだろうか。

「『世界の危機』なんてものの責任を押し付けられるには、アキラは根が優し過ぎるわ。だけど……だから、『救世主』なの?」

 その言葉に女の子達は息を呑んだ。そんな気質によって彼女がこの世界に選ばれてしまったとするなら。

「……だったら、残酷すぎるでしょ」

 苛立ちを吐き出すようにリコットが言う。ナディアも苦しげに表情を歪めながら頷いた。同じ想いだ。きっと此処に居るみんながそうだ。

「ずっと疑問なのよ。どうして今までの救世主様が、この世界を守ったのか。……彼らに一体、どんな義理があったというの」

 彼らは何故、自らの世界を奪われた怒りを持たなかったのか。

 確かにナディア達も、アキラと出会うまでは疑問を抱いていなかった。しかし一度ひとたびその怒りに触れてしまえば疑問にしかならない。

 二代目は、家族を失って、生きる意欲を失っていたと読み取れる手記があった。だからといって今まで培った他の全てを元の世界に残してきた未練は、少しも無かったのだろうか。唐突に呼ばれたことに対する憤りは、ほんの少しも無かったのだろうか。

 それとも、歴代の救世主らも優し過ぎるが故に……見捨てることが、出来なかったのか。

 ラターシャが顔を上げた。やはり泣いていたようだ。涙に濡れた目を、自らの袖で拭った。

「カンナは何か知ってる? 私達が知らない救世主様の言い伝えとか、貴族様なら知ってるのかなって」

 静かに彼女らの反応を見守っていたカンナは、ラターシャの視線を真っ直ぐに受け止めて、少し沈黙した。おそらくはその問いが予想していなかったものであり、やや戸惑った為だろう。

「……伝え聞く内容が、皆様と異なる可能性はございます。ですが『何故救ったか』というようなお話は一切、存じません。救世主様は、……当たり前のように救って下さるものだと、伝わっております」

 一瞬、ナディアは苛立ったように眉を寄せた。その勢いのまま唇を震わせたが、一度、言葉を飲み込み、深呼吸を挟む。ただやはり、感情は飲み込めなかった。

「今更ではあるのだけど」

 低い声だった。先程までもいつもより低く苦しげな声ではあった。けれど今は明らかに色が変わった。気付いたリコットとルーイが反射的に身を強張らせる。

「あなたは……どうしてアキラの侍女になりたかったの? アキラが救世主だから?」

「ナディ姉」

 慌ててリコットが宥めるように声を挟み、珍しくおろおろと、ナディアとカンナを見比べる。カンナは驚いた様子で微かに目を丸めていた。

 彼女らの反応を見たナディアはゆっくりと俯いて、ばつが悪そうな表情で額を押さえた。

「ごめんなさい。カンナを責めようというつもりじゃなかったの。私も、感情的になってしまっているわね……」

 喧嘩しないでほしいとアキラに願われているから、カンナに対してこれを問うことは今まで誰もしなかった。もし「救世主だから」と言われてしまったら、女の子達の心がそれと戦ってしまいそうだったからだ。今ほどその思いが強まっている状況は無いのに、聞いてしまったら、……堪えられるとは思えない。

 カンナは少し目を細めて、姿勢を変えないままで僅かに視線を落とした。

「申し訳ございません。……アキラ様にもお伝えしていない内容を、皆様に告げるわけには参りません」

 答えが返らないことを予想しなかったわけではない。けれどカンナの声には明らかに心苦しさが滲み、彼女自身が心から『告げない』と決めた上でその状況になっているわけではないことを物語る。流石にそんな風には予想していなかった女の子達は、意外な思いで彼女を見つめた。

「ただ一つ言えるとすれば、……理由が『信仰心』であったなら、もっと早く、容易くお伝えできたことと、思います」

 つまり、アキラが救世主であることは、侍女となった理由ではない。

 女の子達にとってそれは望ましい言葉だったはずなのに、みんなは怪訝な顔をした。カンナの言い方は、まるで「その方がマシだった」と言うかのようだ。

 不安な思いもあったが、女の子達はそれ以上を問わなかった。

 カンナは此処へ来た日、王宮の誰でもなくアキラが彼女の主人であり、アキラの不利益になることはしない、と宣言していた。それが偽りでない限り、カンナの心が何処にあろうと、女の子達にとっても不利益になるはずがないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る