第687話
気付いたら、いつもの朝食時間が過ぎてから一時間以上経っていた。少しだけ、眠っていた。
「……カンナ」
消音魔法を解いて、掠れた声で呼んだ。流石に届かないかと思ったが、扉のすぐ傍から待ち侘びたように「はい」と返答が聞こえる。
「お茶」
またあんまり大きな声にならなかったけど、すぐにカンナは「はい」と応えて、扉を離れたようだ。
一つ大きく呼吸をして、顔を上げる。髪を結い直すとか、桶に水を出して顔を洗うとかも考えたが、面倒になったから頬杖を付いてじっと目を閉じていた。
また少しウトウトしたところで、ノックの音に目を覚ます。
「失礼いたします」
「うん」
私に気を遣ってか、カンナは入室すると一度トレーを作業台の端に置いて、扉を閉ざした。それから私の傍までお茶を運んでくる。トレーには、二切れのサンドイッチが乗っていた。
「少し、お召し上がりになれませんか?」
心配してくれているのは感じられる。でも、食欲がなかった。いつもならきっと嬉しくなるだろうサンドイッチの匂いが、今はすごく嫌だった。
「要らない。下げて」
「……畏まりました」
表情は変わらなかったのに、カンナが纏う空気は明らかにしゅんとしていた。それでも私の指示通り、サンドイッチをトレーに戻したカンナはお茶だけを置いて、扉へと向かう。
「カンナ」
「はい」
彼女が扉前に立ち、ドアノブに手を掛けたところで呼び止めた。
「……何か果物があったら、少し持ってきて」
「はい、すぐにお持ち致します」
声色がやや明るい。嬉しいらしい。健気だな。
言葉通り即座に持ってきてくれたのは、マンゴーみたいな果物だった。とろっとしつつ甘みと酸味があって、栄養価も高い。多分カンナと一緒に他の女の子達も一生懸命に考えて、この果物を選んでくれたんだろうな。
「ありがとう。下がってて」
「はい」
心配そうではあったが、扉から出る寸前、果物を口に運ぶ私を見てホッとした顔をしていた。果物を食べ、お茶をゆっくりと一杯飲み終えたら。さっき考えていた通り小さい桶に水を出して顔を洗った。
流石にトイレに行きたくなったらもう出るしかないんだよな。転移魔法でトイレに突入してもいいが、それは幾らなんでもやり過ぎだろう。そこまでして女の子達から逃げようとする自分のことを考えて、ちょっと笑った。
「カンナ」
「はい」
扉を開けたらすぐそこにカンナが立っていた。外開きなのであんまり近くに居られるのはぶつけそうで怖い。でも私が扉に寄ったことは既に魔力感知で気付いていたらしく、扉が当たる位置からは一歩下がっている。
「カップとか下げて。あと、顔を洗うのに使った水とタオルも一緒に片付けておいて」
「畏まりました。アキラ様はどちらに……」
「トイレ」
「失礼いたしました」
部屋から出てこないことも心配だが、急に出てくるのも心配か。心配ばかりで負担を掛けてすまないね。
女の子達からの視線も気付いてはいるものの、まあ、もうちょっと後で。トイレが先。
「……寝よっかな」
トイレから出た私はリビングに入ったところでしばらく静止し、徐に呟く。寝室を見て、ソファを見て、昼寝用カウチを見て、もう一回寝室に目を向けた。
ふむ。正直に言えば寝室の中で一人、ひっそりと休んでいたい。だけどようやく出てきたのに引き続き姿が見えないとなると、女の子達がまた気を揉むよな。カウチにしましょう。
カウチの方に移動したら、みんなの空気が緩んだ。正解らしい。
「……昨夜、少しは寝たの?」
座ったと同時に、ナディアが控え目に声を掛けてきた。
「みんなが起きたくらいの時間から、ちょっとウトウト」
「それは寝ていないと言うのよ」
尤もな指摘に笑うと、ナディアが小さく溜息を吐く。
「お昼は食べられそう? 疲れているでしょうから、こっちで用意するわよ」
「うーん……沢山は食べないと思うけど、軽いもの」
「分かったわ」
「ありがとう」
寝そべったらすぐにカンナが来てブランケットを整えてくれる。もう工作部屋のお片付けは終わったのか。横になって目を閉じたら眠気は襲ってくるものの。昨夜同様、頭の中はぐるぐるしていて、寝付ける気配が無い。うーん。
「リコ」
「ん?」
返事は早かったが、ちょっとびっくりしたみたいな、高めの声だった。私は遅れて目を開けて、彼女が居るだろう方向を見る。まあ当然だけど、全員がこっちを見ていた。
「手、あいてる?」
「普通に空いてるけど。どしたの?」
空いているとは言え雑誌を持っていたはずの手だ。リコットはソファに雑誌を下ろし、空けた手を見せるみたいに肩を竦めていた。私が手招きをしたら、すんなりと傍に来てくれる。
「手、貸して」
そう言いながら私は、自分のデコルテ辺りを指で突く。リコットがふっと声を漏らして笑った。
「いいよ。あれ気に入ったんだね」
「うん」
いつだったか寝かし付けてくれた時に、此処にずっと手を置いてくれていた。あれが妙に安心できて、よく眠れたから。
案の定、今回もその温もりが嬉しくて、ぐるぐるした気持ちが薄れるにつれて眠気がやってきた。そう時間も掛からず眠れたと思う。
とろとろと眠りに落ちていく中で、リコットの唇が私の額に触れたのを感じた。
「はぁ~、もう……顔見せてくれて、本当に良かった……」
何処か泣き出しそうにも聞こえる声で囁かれ、額に吐息が掛かる。反射的に眉を寄せたように思うけど、実際に動いたかは分からない。そのまま意識が浮上することはないままで、眠り落ちた。
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