第686話

 身支度を最後に整えたナディアがダイニングテーブルに歩み寄ると、そこに座っていた女の子達は頼りない目で彼女を見上げた。

「何か書置きはあった?」

「ううん。ごはんだけ……」

 朝食を調達して置いてくれていたのだから、そこに何かメモの一枚でも入っていて、今、工作部屋の奥に立て籠っている――という表現が正しいのかはさておき――アキラの状況を理解する一助になればいいと誰もが願っていたのだけれど。そんな親切なものは何も無かった。

 改めて、ナディアは一つ、長い溜息を吐く。

「どうして少し夜遊びをするだけで、毎回こんなことになるのよ」

「はは」

 レッドオラムでは何度も夜遊びに出ていたがそのようなことは特に無かったし、「こんなこと」の前例は一回だけだ。「毎回」は大袈裟な言葉とはナディアも分かっている。しかし立て続けになると「毎回」と言いたくなるのも仕方が無いだろう。

「消音魔法されちゃってたら、ナディ姉をわざわざ起こしても仕方なかったね。ごめん」

「いいのよ。そもそも私が起きなければ、消音の確認もできないのだし」

 最も懸念されるのは、アキラが体調を崩しているケース。

 その場合は一刻も早くアキラを部屋の中から出して、看護しなければならない。ただ、魔法の反動以外ならほとんどの場合はアキラが自分で治癒できてしまう為、可能性が高いのはそれよりも精神的な理由だ。

「元気になる為に飲みに行ったんだと思ったのに」

「……何かあったのかな。それとも、元気になれなかったのかな」

「う~ん、どっちもありそう」

 妹達の愛らしい唸り声が綺麗に重なった。ナディアは目尻を緩め、宥めるように優しい声を掛ける。

「とりあえず、朝食は取りましょう」

 並んだ朝食をただ見つめながら答えの無い会議をしても仕方がない。促されるのに従ってみんなで朝食を取り始める。扉の前から離れようとしないカンナのことは気になるものの、呼んでも来ないだろうから、彼女抜きで。

 とは言え、永遠にその状態で居るのを見過ごせるわけでもない。

「カンナ、食事しなさい。その間は、私が此処に居るから」

 ナディアの言葉に、カンナはやや渋りながらも頷いた。自らが倒れてしまえばアキラの世話が出来なくなる。そのような判断も出来ないような彼女ではない。こういう時に本当に言うことを聞いてくれなくて困るのは、この家ではアキラ一人だけだ。

 ナディアはカンナが立っていたのと同じところに立ち、しっかり耳を澄ませてみる。けれど工作部屋はそこだけ何も無いかのように音が消えていた。消音魔法を使って意図的に内部の音が外に出ないようにされていることは間違いない。ただ、此方の音がどうなっているのかが分からない。呼び掛けたとして、果たして声が届くのかどうか。

 例えば、夜に帰宅したアキラが単純に何か作業をしたくなって工作部屋へ入り、まだ寝ているナディア達を起こさないようにと音を消しただけなら。そのまま図らずも居眠ってしまって、こちらが起きていることにもまだ気付いていないだけなら。彼女らの抱く不安の全てが杞憂になるのに。

 考え込んでいると、心配そうな顔をしたルーイが傍に寄って来た。

「何にも聞こえない?」

「そうね、何も」

「匂いは? アキラちゃん居る?」

「それは……そうね、確かに、匂いはするわ」

 カンナが中に居ると言うなら間違いなく居るのだろうが、ナディアの感覚でも、確かにこの奥にアキラは居ることが分かる。

 匂いを認識してしまうと、ナディアにとってはアキラがすぐ傍に居るように感じてしまう。扉が閉ざされ、彼女はまるで全てを拒絶しているのに。

 妙に憂鬱な気分になりそうで、ナディアは目を閉じて軽く頭を振った。

 結局、カンナがきちんと食事を済ませて戻っても工作部屋の気配に動きは無かった。

 ようやく動きがあったのは、それから一時間と少し。

 唐突に消音魔法が無くなり、その魔力の変化に気付いたカンナと、音の復活に気付いたナディアが顔を上げた一秒後。「はい」とカンナが応えた。中でアキラが、彼女を呼んだのだ。ナディアはダイニングテーブルの方に戻っていた為、中の声までは拾えなかったけれど。

 数秒後、カンナは再び「はい」と言って、扉を離れた。床に足が張り付いたように動かなくなっていたのが嘘のように素早く、キッチンの方へと歩いて行く。

「……アキラちゃん、何て?」

「『お茶』と」

 ずっと動きが無いよりは間違いなく良いことだし、お茶を求めたならカンナは中に入れるはずだ。けれど本当は彼女の顔が見たくて。心が知りたいのに。女の子達は複雑な思いで息を吐いた。


* * *


 帰ってきてからはずっと工作部屋に籠っていた。何をするでもなく、ただ、机に突っ伏していた。

 女の子達の会話も、扉近くのものだけは断片的に聞こえてきたし、カンナがずっと扉の前に居るのも、魔力感知でぼんやり分かっていた。

 朝になるまでには気持ちの整理が付いて、みんなにおはようって言える予定だった。だけど考えれば考えるほど、苦しくなっていって、上手くいかない。

 レッドオラムが魔物に強襲された時、私は、戦わなかった。

 女の子達とサラとロゼだけ守れたら最悪の場合は街を捨てても良いとさえ思っていたくらいだ。

 丸一日経って、王様からの依頼を受けてようやく前線に行った。目の前で死んだ人は居なかったけど。死者が居たことはちゃんと知っている。ガロが言うには三十八名が死んだとのことだった。私に伝えた後に数字が前後している可能性はあるだろうが、何にせよ、その中にミシェルの夫が含まれている。

 あれだけの魔物の大群が押し寄せる中、それらが街に入らぬようにずっと戦っていた人達が居る。始まりは夜だった。視界も悪く、空を飛ぶ魔物達も来ていた。死傷者が出るのは当然だ。

 最初からそんなことは分かっていたし、分かった上で私は、戦わなかった。

 それでも、……私のせいじゃない。

 全ての人を守ることは不可能だ。そもそも、強襲を受けた時に現場に居て、すぐにその情報を得られたのだって偶々だ。もし私が救世主としての立場を受け入れて王城で過ごしていたとしても、ほぼ変わらないタイミングで動くことになっていたと思う。

 どれだけ「もしも」を重ねても。

 死者がゼロになる未来は絶対に無かった。ミシェルの夫が無事でも、誰かの家族は亡くなっている。全ての悲しみが世界から消えるなんて奇跡は絶対に起こらない。

 分かっている。私は悪くない。

 そう何度、繰り返しても。ずっと気分が悪い。多くの人が犠牲になったいつかの村のことだって。今も時折ふと思い出しては、襲ってくる焦燥感と気分の悪さに首を振り続けている。私に何の罪があるって言うんだ。

 私は、自分の意志とは関係なくこの世界に連れて来られた。求められる何一つも受け入れてやる義理は無い。依頼を熟してやってるだけ、親切な方だ。

 大体、何度も言うが私一人に守れる人間は限られている。

 ……昨夜から私の思考は、ずっと同じ場所をぐるぐると回り続けていた。

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