第685話

「――話し相手をして下さってありがとう。私、きっと誰かとお話したかったのだわ。とても楽しかった」

 ジオレンの観光についての感想を言い合っていたらあっという間に時間が過ぎ、気付けば深夜三時。時計を見て二人で目を丸め、笑った。

「私もミシェルと話せて楽しかった。送り狼をしたいところだけど、旦那さんに悪いから」

 こういう言葉には随分とミシェルは楽しそうに笑ってくれる。

「だけどせめて、宿までは送らせて」

 こんな時間に夜道を一人で歩かせたら、それこそ旦那さんに怒られちゃう。今のジオレンは前より警備が厳重になっているから滅多なことは無いかもしれないが、女性に対してそんな横着はそもそも許されない。

 ミシェルは夜歩きするようなことは若い頃にもしたことが無く、今夜が初めてだったんだと言う。だから「お言葉に甘えるわ」と微笑み、了承してくれた。

「良かったら、今度ランチでも一緒にどうかな? 大聖堂の近くに、美味しいサンドイッチのお店があるんだ」

「まあ」

 宿に着いた時、ミシェルは別れを告げようとしていたのだと思うけど。足を止めた瞬間に言ってその隙を与えなかったので、彼女はまず大きく目を丸めた。それからゆっくりと眉を下げて、困ったように笑う。私は彼女が続ける言葉が。少し焦りながら、紙切れを一枚、彼女の前に差し出した。

「これ、うちのアパート。気が向いたらお誘いに来て。もしくはお手紙を入れてくれたら、私が会いに行くよ」

 手紙を入れる為のポストは一階にまとまっている。女の子達もまめなので前を通る度に確認してくれているし、見落とすことは考えられない。そのようなことを懸命に伝える間も、ミシェルはずっと優しい瞳で私を見つめて微笑んでいた。

 彼女の手が、メモと私の手を一緒に包み込む。

「ありがとう。本当に優しい人ね。そうね、寂しくなったら甘えさせてもらおうかしら」

 少し冷たい彼女の手を今は握り返してはいけないと思った。「いつでも」と告げる私にまた彼女はくすぐったそうに笑って、そして、今度こそ別れを告げて宿へと入って行った。


* * *


 アキラを除けば、朝、最初に目を覚ますのは必ずルーイだ。彼女が行動を始める頃、その気配に誘われるのかのようにカンナも目を覚まし、身支度を整え始める。

 普段ならば、身支度を整えたら朝食準備をしているアキラの手伝いをする為、キッチンに向かうのだけど。リビングへ行ってもその人は姿が無い。ただ、テーブルの上に紙袋が二つ置いてあった。

「アキラちゃん、夜に一回帰ったのかな、……カンナ?」

 大体同じタイミングでカンナも寝室を出てきたから、自分と同じように紙袋を見つめているだろうとルーイは後ろを振り返った。しかしカンナは離れた場所に居た。

 彼女は声に応じて振り返るも、いつになく頼りない顔で見つめ返してくるばかりで、動こうとしない。閉ざされた工作部屋の扉の前で立ち尽くしている。

 そういえば普段、工作部屋の扉は開け放たれていなかっただろうか。昨夜、就寝前に誰かが閉じたのだろうか。自分が寝る時にはどうだったのだろう。よく思い出せないまま、ルーイはその前に立つカンナの傍に寄った。

「奥にいらっしゃいます……」

「アキラちゃん?」

 聞き返すと、カンナは小さく頷いて、不安げな表情でじっと扉を見つめる。

「お休み中かもしれません。または何か作業で集中されているのであれば、それを妨げるようなことは出来ませんし……」

 カンナはおそらく魔力感知ないし魔力探知で、この奥からアキラの魔力の気配があるのが分かるのだろう。しかし状態までは分からなくて、その為、不用意にノックをして邪魔を出来ないと言っているらしい。

 その言葉がなければルーイはこの扉をノックしてアキラを呼んだだろう。いや、カンナがアキラの存在を教えてくれなければ、何も知らず、誰も居ないと思い込んで無遠慮に扉を開いていたかもしれない。

 どうすればいいのだろうかとルーイもカンナと共に扉を見つめた時。

「おはよう、何してるの?」

「……どしたの?」

 しっかり目を覚ましているラターシャと、半分しか目が開いていないリコットが寝室から出てきた。

「アキラちゃん、中に居るみたい」

 咄嗟にルーイはこれだけを告げてしまったが、まるで説明になっていない。

 起きた時にはアキラの姿が無く、テーブルに朝食と思しき紙袋だけがあった。カンナが、中にアキラが居ると察知した。しかし中の状況が分からなくて、ノックや呼び掛けが出来ないでいる――。そのように、順に説明した。

 リコットは眉を顰めながら頷くと、ルーイの頭を撫でながら、逆の手で目を擦る。それから、寝室を振り返った。

「ナディ姉~、起きれるー?」

「んん……まって……」

 布越しのような、くぐもった弱々しい声が寝室から聞こえてくる。眠りの浅いナディアのことだ、ずっと起きてはいて、ただ起き上がれないだけ。つまり会話は一通り聞こえていたと思われる。

 少し唸る声が聞こえた後で、ナディアも起きてきた。酷く眠そうで、目はほとんど開いていない。日中は視力が落ちるナディアなのに、きっとこれではほとんど何も見えていない状態だ。しかし可愛い妹達に求められてしまえば、起きて来ざるを得ないのだろう。

「全員で集まっても仕方ないから、とりあえずみんな、顔を……」

 顔を洗って身支度を整えろと言おうとしたのだろうが、その言葉は途中で止まる。ナディアは工作部屋の扉を見て、しばし沈黙した。

「音が無いわね……消音……」

 ぽそりと呟いた言葉は独り言のように小さい。しかし工作部屋が消音魔法で包まれているのだと言うことは、全員に伝わった。

「とりあえず、此処に集まらないで。ほら」

「はぁい」

 ナディアに促されると、ルーイ、ラターシャ、リコットの順にそこを離れた。しかしカンナは一歩も動かなかった。

「カンナ」

 呼び掛けるも、カンナは反応をせず、扉の前で俯き加減のままだ。ナディアは他の子らにそのまま離れるように手振りしつつ、カンナの方へと戻った。

 近付く気配に少し身を固めたカンナの背を、ナディアがそっと撫でる。

「あなたの気の済むようにしたらいいわ、ごめんなさい」

「あ、いえ」

 ナディアの言葉に驚いたようで、頑なに動かなかったカンナがパッと顔を上げて振り返った。普段は無表情なだけの彼女は、アキラのことになると時折このように、酷く不安そうな、泣き出しそうな色を表情に滲ませる。

「……申し訳、ございません。私は、此方におります」

「ええ」

 短く了承して、ナディアはカンナを残してそこを離れた。

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