第684話

 お酒の入ったグラスの水滴をじっと見つめるようにした後、ミシェルは小さな溜息を零す。

「私は、あの街で生まれ育ったの」

「……そうなんだ」

 小さな時からずっと過ごしてきた大切な街に魔物の大群が攻めてくるなんて、怖かっただろうし、だからって簡単に逃げ出す選択も出来なかったことだろう。今ミシェルが観光で此処に居るのか、転居の為に居るのかは分からない。でも、簡単な思いじゃなかったことくらいは分かる。

 そんな風に思うことが、どれだけな考えだったか、数秒後に突き付けられた。

「夫はね、あの日、防衛に出ていたの。そして、帰ってこなかった」

 心臓の奥に冷や水を垂らされたような気分だった。私の喉がひくりと震えたことに、遠い目をしていたミシェルは気付かなかった。

「遺体が返ったことは、まだ幸いだったわ。一緒に戦っていた人達が、最後まで負傷した夫を守ろうとしてくれたのですって。自分の命すら危ぶまれる状況なのに、勇敢で優しい人達があの街には沢山居るのだって、改めて感じたの」

 私が呼吸を止めて動揺を抑え込んでいる間に、ミシェルはそう言って優しい目をした。共に戦っていたという仲間らに対し、「どうして助けてくれなかったのか」と、責めずにそうして讃えられるというのは、あまりに気高くて私みたいなガキには信じられない思いだった。

 だけどそんな気持ちをぶつけていいとは思わない。ゆっくりとそれを飲み込んだ。

「王宮からの支援が来るまで、冒険者と兵士が丸一日、防衛してくれていたんだってね」

 私の言葉にミシェルが静かに頷く。

「旦那さんは、冒険者だったの?」

「半分はね。普段は鍛冶師をしていたわ」

 メインが鍛冶の方で、素材を取りに行くついでに依頼を熟すなど、冒険者は副業だったそうだ。

「冒険者の方が儲かるからと、若い頃はあんまり街に帰ってこなかったのよ」

「その頃からもう、結婚してたの?」

「ううん。恋人でもなかったわ。勝手にやきもきして、もっと帰ってきてほしい、もっと街に居てほしいって怒ったこともあった。……今思えばなんて勝手な願いなのかしらね」

 今思えばってことは、当時はそれをおかしなことと思わなかったのだろう。つまり、誰もそれを『勝手だ』と指摘しない程度には、ミシェルと旦那さんは既に恋人のような夫婦のような関係だったのかもしれない、もしかしたら兄妹とかかもしれないけど。何にせよ、ミシェルが帰りを心配する立場で当然だと誰もが思う程度に、二人は親しかったのだと思った。

 そうしてミシェルが怒ったことを切っ掛けに旦那さんは鍛冶師の仕事を増やし、街に居る時間を増やしてくれたそうだ。当然、二人で過ごす時間も増え、恋人になるまでそう時間は掛からなかったと言う。

 馴れ初めを聞かせてくれる彼女はまるで少女のように照れ、微笑むけれど。その瞳が見つめているのはあくまでも遠い過去で、喪った今ではなくて。時折、現実を思い出しては痛みを鎮めようとするように目を細めていた。

「彼の話す冒険譚の中に一番よく出てくるのが、この街だった。ワインが美味しくて、食事が美味しくて、大聖堂は圧倒されるような荘厳さで。訪れる度に、心が洗われるようだと」

 旦那さんと会話したその時のことを思い出していたのか、ミシェルはくすくすと笑うと、少し声を弾ませた。

「老後には移り住んでみようか、でもまずは旅行で少し滞在するのはどうか、なんて、よく話していたの」

 旦那さんと一緒に訪れるはずだった旅を今、彼女は一人きりでなぞっている。

 彼の話の中だけでしか知らなかったジオレンを一つ一つ確かめて、だけどその喜びを本当に伝えたい相手が、もう、何処にも居ない。

「あら」

 ミシェルの声にハッとして目を瞬く。彼女は私を見つめ、眉を下げて微笑んだ。ちゃんと笑っていたつもりだったのに。いつの間にかまた感情的になって、表情が崩れてしまったらしい。

「ごめんなさい、アキラさんまで、そんなに悲しい顔をしないでね」

 頭を撫でられて、もっと心が緩んで泣き出しそうになってしまった。ぎゅっと口を引き締めて泣かないようにと堪えた私を見て、ミシェルは笑みを深める。

「優しい子ね」

「そんなんじゃ、ないよ。ごめん、ミシェルがつらいのに」

 慰める側が慰められるなんて、何度やるんだこんなこと。ケイトラントの時だってそうだ。私はこういう時、上手く感情を制御できなくなることがある。口元を押さえて、何とか飲み込んだ。

「ごめんね、感情的になっちゃって……」

「ふふ。私のことを想ってくれたのでしょう、ありがとう」

 私は軽く首を振った。彼女のことだけを想ったわけじゃない。私はそんなに心優しい人間じゃない。だけどそれを伝えるのは、失礼だとも思うから、これ以上の強い否定は出来なかった。ただ、不格好に笑った。

「スマートに女性を口説きに来たはずが、大失敗だなぁ」

「あらあら、こんなおばさんを捕まえてお上手ね」

「ミシェルは全然おばさんじゃないよ。それに、素敵な女性に年齢は関係ない。……幼い子は、流石に駄目だけど」

 付け足した言葉にまた楽しそうにミシェルが笑う。口説くという話もただの冗句と思われているらしいが、元々はちゃんとそのつもりで来たんだよ。伴侶を亡くしたばかりの人に付け入るつもりは無いので、今はもうそんな気は無いけど。

「アキラさんも大聖堂はもう行ったの?」

「勿論。一番の観光名所だって聞いたから」

 何も無かったみたいに話を続けてくれるのも、ミシェルの優しさだ。私がその調子に合わせて応えたら、またミシェルが少女のように声を弾ませる。

「私ね、ステンドグラスが想像していた以上に美しくて本当に驚いてしまったのよ」

「時間ごとに色も変わって、本当にきれいだよね」

「そう! それが楽しくって、色んな時間に訪れてしまうのよね」

 嬉しそうに語り聞かせてくれる感想に丁寧に相槌を打つ。

 本当はきっと旦那さんと話したかったことだと分かっている。でも私がそれを感じ入って泣いてしまったら駄目だ。楽しい思い出として消化しようとしている彼女にこれ以上の横やりを入れてしまわないように、私も笑顔で相槌を続けた。

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