第677話_苛立ち
流石に禁書の部屋でお茶を飲むのは、私の立場を使えば許されるとしても気が引ける。きちんと外に出て休憩します。ソファに座って、溜息を一つ。カンナがチョコレートを出してくれた。偉い。今一番役に立つおやつ。
「ふあ。流石にちょっと眠くはなるね。カンナは平気?」
「……耐え切れないほどではございません」
本当なら「いいえ」って答えたかったのだろうに。タグのせいで正直に答えるしかないカンナなのである。可愛い。そうだよね、普通に眠いよね。でも限界ってほどではないのは本当らしい。ごめんね、もう少し我慢してね。
一応、私の為に淹れてくれているお茶を同じように飲んでも構わないと言っているので、隣には座らないが、ほんの少し離れた位置で飲んでいる。君の眠気を吹き飛ばす一助になりますように。
此処にきて一番長い三十分という休憩を挟んでから、再び禁書の部屋に入った。カンナもきちんと傍に付いている。癒し。
今度は壁の本棚を奥から順に見ることにしよう。この書庫の特徴から言っても、一番奥が一番貴重なものだろう。最終的には全部を読みたいんだけど、流石に今夜の内には無理だろうな。出来るだけ貴重そうなものから手を付けて行く。
この国の法律に関することなどは興味深く思った。草案から改正案なども残されていて、試行錯誤された痕跡が面白い。こういうのは元の世界のものもよく知らないんだよな。父さんや兄さんが詳しそうだ。
遥か昔の歴史を書いた本の中には、全然知らない国の名前も多くあった。戦乱時に消えてしまったものや、今のダラン・ソマル共和国に統合されたものだね。当たり前のことだが、それぞれにちゃんと独自の文化があったんだな。無駄に熟読してしまった。こっちの方が、私が元の世界で専門的に触れていた知識に近い。
私はグローバルな会社で営業をしていたこともあって、海外の文化はかなり勉強した。取引があるところは勿論、無いところも。だって、何の切っ掛けで話題に上がってくるか全く分からないのでね。
例えば。とある取引先の営業部に、イギリスのフォークランド諸島に親戚が居るっていうハーフの男性が居た。フォークランドは間違いなくイギリス領なのだけど、彼と話していても、ロンドンみたいな誰もが知る街の名前が出てくることは無い。フォークランドは、南米の方にあるせいだ。イギリス領って上辺の知識だけで知ったような気になってブリテン島の話を振ろうものなら恥を晒す羽目になる。
これは初歩の初歩だけどね。知っている人は義務教育の内に知っているし。
とにかく、世界の知識を細やかに拾い集めることが私は好きだったし、それを仕事でも沢山活かすことが出来ていた。
……何だか遠いところに思考が逸れてしまったな。軽く頭を振る。ちょっと疲れてきたかな。
そうして元の世界での『興味』が少し刺激されて、懐かしい思いをしていた。呑気にそんな気持ちになった私は、もう油断していたのだと思う。正直、この部屋で最も私の心を傷付けてくるとしたら、救世主の残した手記だと思っていたから。
ある一つの本、あるページを捲ったところで私は静止した。
すぐにその変化を察知したカンナが、やや怪訝な顔で私を見つめたのを感じる。クラウディアからも緊張が漂うが、彼女は私の様子を『不思議なこと』とは思っていない気がした。
――苛々した。
「クラウディア」
「はい」
私の声が数段低くなったのは、誰が聞いても明らかだったと思う。
「他にも、こういう本はある?」
本から顔を上げて彼女を見つめる。彼女は私を見て、僅かに目を細めた。
「お求めのものか定かではございませんが……少々、お待ちください」
そう断りを入れたクラウディアはこの小さな部屋を歩き回ると、六冊の本を持って私のところへと戻った。近くにあった椅子へ置くように指示し、以降は離れていろと命じる。彼女は何も言わずただ小さく頭を下げ、傍を離れた。
置かれた本を一冊、手に取った時。カンナの視線も、その本へと向いた。
「カンナ」
「はい」
私が呼べば視線は容易く奪うことができた。絡んだ視線、彼女の真っ直ぐな瞳。ほんの少しだけ、心が穏やかになる。痛みが和らいだ。
「君がこの部屋で見つめて良いのは、私だけだよ」
一つの瞬きの後、カンナの瞳はいつも通りの強い意志を宿す。
「はい。申し訳ございません」
軽く頷いて、私は本へと視線を戻した。
実際、この部屋の中をあまり彼女に見つめさせるべきじゃないとは思っていた。本の名前一つとっても、機密情報である可能性が高いせいだ。
だけど何よりも、彼女が見つめてくるその気配が今の私を繋ぎ止めてくれているとも思ったから、視線は逸らさないでほしかった。カンナは多分、私が求めたことをよく理解してくれていて、その後、視線を外すことは一度も無かった。
一時間ほど経っただろうか。私は置かれていた六冊全てを読み終えて、ゆっくりと本を閉じる。
私の曖昧な指示だけでクラウディアが持ってきた本は、私の意図を、……正し過ぎるほど、汲み取っていた。
「クラウディア」
「……はい」
先程呼んだ時よりクラウディアの返事は緊張していた。私の声がまた一段と低かったせいかもしれない。
「君はこの本の中身を、いつから全て把握していたの?」
六冊の本を『正確に』選んできたのだから、間違いなく、今の彼女が全ての中身を把握していることは明らかだ。ただ、「いつから」という質問は意外だったのか、少し戸惑った後でクラウディアは口を開いた。
「十三歳になるまでには、この部屋の本はすべて読み終えておりました」
「その上で」
何だか声を出すことが酷く重たくて。一度、呼吸を挟む。
「私を召喚することに、君は、賛成していたのかな」
クラウディアが救世主の召喚に『反対』していたことを、今はもう私も知っている。だけど知らないことになっているから、敢えてこの言い方を選んだ。
彼女の唇が二度、震えては閉ざされた。返答を迷っているらしい。何度も、言うべき言葉を選び直していた。けれど彼女が口にした返答は明確で、短かった。
「いいえ」
聞き間違えようのないはっきりとした否定。しかしその声は明らかに震えていた。
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