第654話
今のケイトラントは優しくて情に厚くて、面倒見のいい人だけど。当時のケイトラントはどうだったんだろう。戦場という特殊な環境で生まれ育った彼女は『情』というものを、知っていたんだろうか。与えられたそれを理解できるのだから、内には少なからずあったのだと思う。ただ、その扱い方をまるで知らなかったのかもしれない。
実際、当時のことを彼女は「戦う以外を知らなかった」と言い、「武器を交える以外に他者と関わることは無かった」とも話した。
正式に統率の取れた組織に属していたわけではなく、一時的に寄せ集められた傭兵として動くばかり。だから単純な強ささえあれば、役割として問題なかったようだ。
「だが、そんな私にも。ジョシュア様達は優しさと温もりをくれた」
彼女の声が少し低くなり、何処か、寂しさを宿した。
「敵だったはずの者に心を砕き、正面から向き合い、何度も、話をしてくれた」
戦い以外を知らない狂犬のような一人の兵士。有力貴族の血族であるわけでもなく、戦場で生きて死のうとしているだけの当時のケイトラント。そんな人と分かり合う為に、侯爵ともあろう人が時間と労力を割く必要が何処にあったのだろうか。政治的に考えればそれを愚かだと言う人は大勢居ると思う。だけど『だからこそ』彼の言葉は、ケイトラントに届いたのだ。
「いつからか私は、あの方を父のように想い、慕う心を持った。いや、考えるほど身の程知らずな思いだがな」
少し照れ臭そうにケイトラントは笑って、また肩を竦める。
普通の貴族相手なら確かに、平民の方から「家族のように慕っている」と言うのは不敬と取られるのかもしれないけど。モニカのお父さんなら、そしてモニカなら、嬉しそうに笑いそうだ。
俯き加減に語ってくれていたケイトラントは、ふと顔を上げると遠くを見つめ、目を細めた。その瞳に、深い、痛みと悲しみの色が滲む。
「その思いが何一つお返しできず、御力になれなかったことを。……無念の中で命を落としたお姿を見たあの瞬間を……とてもじゃないが、言葉に、出来ない」
ケイトラントの声が、微かに感情に震えていた。
たった三年前の喪失。消化するには短すぎる。此処に居るみんなにとってはまだ、かさぶたが被ったばかりで痛みの引かない傷のままだ。
温もりを何も知らなかったケイトラントに情を与えた人。二年間、情勢が落ち着くまで待ってでも、お礼を伝えたくなるほど慕った人を。ケイトラントは、目の前で失った。話したいことも返したかった恩も、彼女の中には抱えきれない程にあったのだろうに。
「私は何も出来なかった。だがジョシュア様は、こんな私にモニカさんを託してくれた。モニカさんも私を友として許し、今もこうして傍に居させてくれている」
許したも何も、ケイトラントが居なければ此処に辿り着くことも生き抜くことも、土台無理な話だったのだろうけど。ケイトラントにとっては『ジョシュア様も御子息も守れなかった』と悔いているから、モニカがそんな自分を『許してくれた』という意識らしい。
擦れ違ってしまっているようにも感じるが……二人の間のことだ。私が口を出すべきではないのだろう。
「どれだけ不遜であろうと、もう傍を離れることは無い。私は彼女を、生涯守っていくと決めたんだ」
見上げた先、ケイトラントの瞳は真っ直ぐで迷いなど欠片も無かった。だけどその後ろに抱えられている痛みと悲しみと後悔は、隣で見つめているだけでも息が詰まるほどに、深くて大きい。
「……私は、もう二度と、家族に会えない」
思わず零した言葉に、ケイトラントも、少し離れた場所で聞いている女の子達も沈黙し、息まで潜めたかのように静かになった。私を見下ろすケイトラントと視線が絡み、一つ瞬きをした。彼女を見つめながら、私は『繋がり』を失ってしまった自分の家族を想った。
「だけど、生きてた。奪われたけど、お互いに生きたままで引き離された。目の前で、傷付けられた家族を見る、自分の無力を突き付けられる……っ、痛みは」
その先は、声にならなかった。ケイトラントの笑う声が聞こえたのに、その笑顔は歪んだ視界ではよく見えない。
「ばかだな。……お前が、泣くなよ」
落ちてきた声が、優しかった。大きな手が頭を撫でてくれたら、その振動で私の目からは沢山の涙が零れ落ちていく。
溢れ出したらもう止まらなくって喉が震えた。小さい子供みたいに泣き始めた私にまたケイトラントが笑ったけど、撫でる手は優しいまんまで、私が泣き止むまでずっと撫でていてくれた。
「……うぁ、鼻が痛い」
「下を向いて泣くからじゃない?」
泣き止んだ後の第一声にリコットが笑いながら言う。そうかも。なんかツーンとします。即座にカンナが濡れタオルと飲み水を差し出してくれる。本当に気の利く侍女様だ。ありがとう。
「まだ病み上がりなのだから、変に体力を使わないで。少し休んできて」
「うーん、はい」
立ち話をしたら苦言を呈されると思ってわざわざ椅子を運んだのに、結局こんなことになりました。
実際、泣き疲れてしまったので私はすごすごとテントに入った。私が傍を離れるまでケイトラントは後頭部とか肩とかずっと、慰めるみたいに撫でてくれていたけど。辛いのは私じゃなくてケイトラントなんだよな。勝手に感情的になって泣いたことを反省しています。
ベッドに入る頃にそうして省みた私は、起きた後でちゃんと謝りました。ケイトラントは、ずっと笑っていたけどね。
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